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密 事

 この季節になると訪れる場所がある。薄紅の桜花がほころび、それを眺める緋桜も美しく咲き匂う宮。利広は麗しき紅の女王の笑みを思い浮かべ、己も笑みをほころばせた。

 慶東国王都堯天、堯天山の頂きにある金波宮に辿りついた。利広は勝手知ったる恋人の宮を気儘に歩く。目指すは女王の執務室だ。堂室から見える庭院の古木はもう花開いているだろうか。回廊を吹き抜ける風は、穏やかに暖かかった。やがて大きな樹が視界に入る。探し人は、その樹の下で、開きかけた花に手を伸ばしていた。
「陽子」
 回廊から階を降りながら名を呼んだ。女王は振り返り、眩しい笑みを見せる。傍まで歩み寄ると、恋人は手を差し伸べ、利広を抱きしめた。抱擁で出迎えられたのは初めてかもしれない。
「よくできました」
 利広は笑みを浮かべ、密やかな声で女王の耳朶に囁く。誰も触れてくれなかった、と打ち明けたひと。言葉に出せば勅命になってしまう、と俯いた女王に、利広は身を以て教えた。ほしいものには手を伸ばすのだ、と。愛しい女は眼を瞠り、誰も教えてくれなかった、と呟いた。

 女王の伴侶は王だった。気儘なかの御仁は歳若い伴侶をそのまま愛した。野に咲く花を愛でるように。剪定されることなく咲き初めた強く気高い花。麗しきその花を首尾よく手にした利広は、ふと不安に駆られた。純真無垢な恋人に知恵を授けることで己の首を絞めているのではないか、と。

「君はどうして簡単に男を受け入れようとするの?」
「大したことじゃないから」

 不意に投げかけた質問に即答されて、利広は束の間答えに窮した。愛しい女の翠の瞳が不思議そうに見つめている。
「どうかした?」
「――即答なんだね」
 利広は苦笑を浮かべて返す。翠の宝玉が、大きく瞠られた。そして、麗しき女王はくすりと笑いを零す。
「あなたに答えを濁しても無駄だからね」
 確かに、利広が女王への問いに黙秘を許したことはない。けれど、今回の答えはあまりにも意味不明だ。首を傾げた利広に、女王は笑みを湛えて応えを返す。

「だって、子供ができるわけじゃないもの」

「あちらでは……子供ができる行為なの?」
 今度は利広が眼を瞠る。意外な答えに、己の恋人が胎果であることを思い出した。蓬莱では子供は女の腹に宿る。概念としては分かっているつもりだが、利広は状況を正しく理解することができなかった。女王は微笑んで首肯する。
「想像できないとは思うけど」
「うん、分からない。でも、憶えておくよ」
 利広は苦笑を深めて女王の朱唇を甘く塞ぐ。そのまま素肌に手を滑らせた。昼日中、執務室から見下ろせる庭院。女王が抗うわけだが、利広は気にしなかった。人の気配はない。それに、身を震わせて小さく喘ぐ女王は可愛らしかった。利広は朱に染まる女王の耳朶に囁く。
「大したことじゃないんだよね?」

「それとこれは話が別」

 利広の手に抗いつつも、女王は即座に応えを返した。利広は怪訝な眼を向ける。女王は利広の首に腕を絡め、艶麗な笑みを見せた。

「――結局、私に触れたひとは、あなたとあのひとしかいないし」

 利広は大きく眼を瞠る。女王は、身と心は別物だと明言した。必要があれば己の身を与えることすら辞さないのだ、と。実際、利広が望めば女王はその身を差し出しただろう。利広はそれをよしとしなかった。利広にとって陽子は身も心もほしい女なのだから。
 そういえば、己の伴侶にすら「私は誰のものでもない」と言い放つ女だった。こんなにも誇り高く苛烈な女に、誰が軽々しく手を伸ばすことができるというのだろう。利広は小さく吹き出した。挑戦的な瞳で愛を告げる恋人を見つめ返す。そのまま身を委ねる女王に、利広は熱く深く口づけた。

 それから、女王は咲き初めた桜花を見上げた。利広は苦笑する。己の身と心を預けることで却って男の欲を抑えこむとは。この天衣無縫ぶりは昔から変わらない。
 見上げると、起き抜けでまだ眠そうな花々が見下ろしていた。利広は笑みを浮かべ、恋人に此度の旅土産を語り出した。

 夜に女王の私室を訪う。恋人は寛いだ笑みで利広を迎えた。昼には見せない艶めかしい貌を見せる女を、利広はきつく抱きしめる。いつも一緒にいられるわけではない。だからこそ、隔てるものなく抱きしめ合うこのひとときが愛おしい。そして、愛しい女を得るために費やした永い時を懐かしく思い出すのだ。

(──私には、あなたが必要みたいだ)

 ずっと遠くばかりを見ていた翠の宝玉が、真っ直ぐに利広を見つめ返したあのときを忘れたことはない。澄んだ瞳は、あれからいつも利広を映す。今もまた。

「――初めてあなたに抱かれたときは、驚いたけど」

 情熱が果てた後、腕の中の女王が気怠げにそう呟いた。美しい翠に見入っていた利広は、ああ、と軽く笑う。
「だって、君の伴侶は風漢だったから」
 初めて出会ったのは堯天の下町だ。入ってきたそのときから、王と分かる光輝を放っていた。酒を奢って話しかけ、無防備な女王からあれこれ聞き出した。遠く離れて住む伴侶がいることも、その男が誰なのかも。
「――意味が分からない」
 小さく笑って少し尖った愛らしい唇を啄む。風漢の女と知ってますます女王に興味を覚えた。あの御仁が、高岫を越えてまでも通う女か、と。実際に女王を抱きしめて、利広も驚いた。景王陽子は、呆れるほど物慣れない乙女だったのだから。
 あの風漢が、いや延王尚隆が、それほどまでに大切にしている女。そして、初心で純粋な乙女は、利広をも魅了したのだ。けれど。

 君は、そんなことを知らなくてもいい。

 利広は黙して微笑する。そして、拗ねた女王が離した朱唇に、深く甘く口づけた。抗う恋人を難なく組み伏せて、利広はにやりと笑む。
「君は、今も昔も変わらない。相変わらず可愛いね」
 悠久の時を過ごす女王は、目を丸くする。褒め言葉に戸惑う恋人を、利広は再び熱く抱きしめた。

2016.05.19.
 先に出した短編「問答」の利広視点をお送りいたしました。 元は拍手其の三百九十七「問いと答え」でございます。
 こちらは出すつもりがなかったのですが、利広が楽しげに語り出すものですから、 仕上げてみました。
 「密事」は音で「みつじ」と読みますが、「みそかごと」と読ませたい。 そちらの方が内緒っぽいと思いますので(笑)。
 需要は少ないとは思いますが、お楽しみいただけると嬉しく思います。

2016.05.19. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館Dream Fantasy」さま
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