「管理人作品」 「16桜祭」 「玄関」

問 答

 ふと顔を上げると、庭院の樹が薄紅に染まっていた。景王陽子は微笑する。眺めていると、肩の力が抜けていく気がした。陽子はひとつ頷き、書簡を捌く速度を上げる。程なく仕事に限りをつけた。書卓をきちんと整え、陽子は立ち上がる。そして、庭院に続く窓を開け、ゆっくりと階を降りた。

 暖かな陽射しの下で、桜は眠たげに蕾を解いていた。咲き初めの花は可憐で、見つめる陽子の唇もほころびる。そっと手を伸ばした、そのとき。

「陽子」
 名を呼ばれて振り返ると、回廊の階を降りてくる柔和な笑顔が目に入る。陽子は笑みを返し、久しぶりに現れた風来坊の恋人を抱擁で出迎えた。
「よくできました」
 密やかな笑い含みの声が耳朶を擽った。ほしいものには自ら手を伸ばすのだ、と教えてくれたひとは、陽子を優しく抱き返す。陽子はその腕の心地よさに身を委ね、しばし眼を閉じた。やがて。

「君はどうして簡単に男を受け入れようとするの?」

 吐息のような声がした。陽子は眼を上げる。柔和な笑みはそのままに、奏南国太子卓郎君利広は陽子の瞳を覗きこんできた。
 会って早々に恋人は問答を始める。陽子はくすりと笑いを零した。この場に友たちがいたならば、烈火の如く怒りそうな問いかけだ。しかし、失礼だとは思わなかった。実際そうだからだ。陽子は躊躇うことなく応えを返す。

「大したことじゃないから」

 悠久の時を生きる風来坊は、何も言わずに眼を泳がせた。陽子は首を傾げて問いかける。
「どうかした?」
「――即答なんだね」
 利広は苦笑を浮かべた。陽子は大きく眼を瞠る。このひとが、陽子の答えに絶句するなんて。珍しい出来事に笑みが溢れた。
「あなたに答えを濁しても無駄だからね」
 そう、王でも臣でもない利広は、陽子に黙秘を許さない。君はどうしたいの、という穏やかながら厳しい問いに、陽子はいつも己の心の闇を見つめなければならなかった。けれど。
 いま利広は心底不思議そうに首を傾げている。ほんとうに陽子の言っていることが分からないようだ。陽子は笑みを深めて理由を補足した。

「だって、子供ができるわけじゃないもの」

 いつか好きなひとと結婚してそのひとの子供を産むのだ、という漠然とした想いを抱いていた。あちらに住む女ならば珍しくもない平凡な望みだ。そんなささやかな願いが、こちらでは叶わない。それを知った時の喪失感。
 あのとき、陽子には愛して已まない伴侶がいた。いくら肌を合わせても、この身体があのひとの子を身籠ることはないのだ。その想いはしばしば陽子を苛んだ。それはそのうち開き直りに繋がった。必要があれば、誰にでも身を許せる。そして、今でもそれは変わらない。

「あちらでは……子供ができる行為なの?」

 軽く眼を見開き、利広は確認するように問い返す。思った通りの反応に、陽子は微笑して首肯した。
「想像できないとは思うけど」
 昔、蓬莱では子供は女の腹から生まれるのだ、と告げた時の楽俊の反応を思い出す。次から次へと繰り出される楽俊の質問に、陽子はひとつも答えることができなかった。こちらでは里木に卵果が生るのだ。あれから幾年も過ごしたが、今でもこちらの人間を納得させられるとは思わない。
「うん、分からない。でも、憶えておくよ」
 聞いて陽子は微笑する。柔軟なひとだ。苦笑したままの利広は、陽子の唇を甘く塞ぐ。抱きしめる手が素肌に触れた。陽子は慌てて利広の手を押さえる。今は昼で、ここは私室ではないのだ。しかし、熱くなる耳朶に意地悪な声が囁いた。

「大したことじゃないんだよね?」

「それとこれは話が別」
 官能を呼び起こす愛撫に抗いながら、陽子は即座に応えを返す。利広は手を止めて怪訝な貌を見せた。陽子は恋人の首に腕を絡めて笑みを送る。そして、おもむろに本音を告げた。

「――結局、私に触れたひとは、あなたとあのひとしかいないし」

 身と心は別物だ。だから、必要があればこの身体を与えることもあるだろう。それは王の責務と割り切ってもいた。しかし、今まで女王の身と引き換える事案を提示されたことはない。そして、己の身を以て報いよう、と思っていたひとは、終ぞそれを求めなかった。
 悠久の時を生きる風来坊の太子は、永い時をかけて心閉ざした陽子を現に連れ戻した。何度も好きだと告げながら、何も求めず安らぎを与えてくれたのだ。陽子はそんな利広に感謝していたし、返すものがないことに恐縮してもいた。だから、昔のように、君がほしい、と言われれば、いつでもこの身を差し出すつもりだった。それが利広の望みならば叶えたい、と思っていたのだ。けれど。
 抱き寄せて時折唇を啄みながらも、利広はそれ以上を求めようとはしなかった。そんな鷹揚なひとだからこそ、陽子は利広に心惹かれたのだろう。

 己は幸せな女なのだ。

 陽子は自覚している。愛し愛された男としか肌を合わせたことがない。身も心も重ね合わせることで得られる悦びは、筆舌に尽くせない充足を齎すのだ。
 利広は大きく眼を瞠った。しばし黙し、小さく吹き出す。秘めやかな愛の告白を、恋人は理解したらしい。陽子は利広に身を委ねる。恋人は笑みを浮かべて陽子に熱く口づけた。

 それから、いつものように利広と花見をした。咲き初めた桜花は、少し眠たげにふたりを見下ろしてくる。陽子はその愛らしさに眼を細めつつ、風来坊の土産話に耳を傾けた。

 夜には私室に恋人を迎えた。見つめ合い、微笑みを交わし、唇を重ねる。隔てるものなく抱きしめ合い、素肌の温もりを確かめた。そのまま穏やかな熱を分け合う。いつも一緒にいられるわけではないふたりは、そうしてひとつになり、同じ時を過ごす。それは、至福と呼んでもいいものだろう。
 気づいた時には肩が触れるほど傍にいてくれたひと。そのさりげない気配は、存在を忘れてしまうほどに心地よかった。

(君には私が必要だし、私は君の傍にいたいんだ)

 言葉どおり、心沈む桜の時季を共に過ごしてくれた春風は、身も心も温めてくれる。手を伸ばせば触れることができる、現の存在なのだ。
 柔和な瞳が優しく見つめる。いつも穏やかな、悠久を生きるひと。しかし、陽子はこのひとが隠す烈しさを知っている。何もかもを焼き尽くすような熱をも。それは、今や懐かしい出来事だった。利広は憶えているだろうか。ふと昔のことを訊いてみたくなった。
「――初めてあなたに抱かれたときは、驚いたけど」
 柔らかな沈黙を破り、陽子は小さく呟く。陽子を腕に抱き、緋色の髪を弄んでいた恋人は、ああ、と言って軽く笑った。

「だって、君の伴侶は風漢だったから」

 かなり昔のことにも拘らず、即座に返された応え。けれど、相も変わらず脈絡のない答えだ。利広は伴侶の旧い知己だった。しかし、それがどうしたのだろう。陽子は唇を尖らせる。
「――意味が分からない」
 利広は小さく笑い、陽子の唇を啄んだ。それ以上答えを与える気はないらしい。笑みを深めて陽子を見つめるばかりだ。昼の意趣返しのつもりなのだろうか。そう思うと腹が立った。しかし。
 文句を言おうと開きかけた唇は、呆気なく塞がれた。抗う陽子を組み伏せた利広は、人の悪い笑みを見せて甘く囁く。

「君は、今も昔も変わらない」

 相変わらず可愛いね、と楽しげに続ける恋人の熱は、再び陽子を捉えて呑みこんだのだった。

2016.05.06.
 連作「来訪」に連なる作品をお届けいたしました。 利広を受け入れた陽子の糖度高めなお話になったと思います。
 この先は陽子末声に向けてひた走る連作でございます。 永い年月を重ねて想いを遂げた利広に報いたいと思って書き上げました。 鈍い陽子主上に利広の気持ちは解らないでしょうが(笑)。
 需要は少ないとは思いますが、お楽しみいただけると嬉しく思います。

2016.05.06. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館Dream Fantasy」さま
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