「管理人作品」 「16桜祭」 「玄関」

桜 想

* * *  1  * * *

「今夜は君と一緒に眠らせてくれる?」

 ずっと胸に秘めていたその一言を、とうとう口に出す時が来た。逡巡なく頷くならば、潔く引き下がろう。利広はそう決めていた。
 聞いた女王は、束の間息を呑む。桜を見上げていた利広は、おもむろに視線を戻した。女王は、大きく眼を瞠っていた。その滑らかな頬が、徐々に桜色に染まっていく。しかし。
 女王はじっと見つめる利広から目を逸らすことなかった。咲き初めた桜花の羞じらうような微笑を浮かべ、景王陽子は小さく頷く。利広は愛しい女を抱きしめて甘く口づけた。

 夜に女王の私室を訪ねた。堂室の主は、ぼんやりと榻に坐している。扉を開ける音にも気づかぬその様子に、利広は口許を緩めた。
 寛いだ夜着と背に流された豊かな緋色の髪。昼には勿論、以前夜半に堂室を訪ねたときにも目にしたことがない。そして、いつにも増して無防備なその姿。じっくりと眼の保養を済ませた後、利広は今来たような笑みを浮かべた。
「──何を考えこんでいるの?」
 ゆったりと声をかけると、女王ははっと顔を上げた。少し眼を瞠り、女王は苦笑を零す。そうして、小さな嘆息とともに立ち上がった。
「あなたに問われたことを」
 それは、問うた利広が入ってきたことにも気づかないほどに物思うことなのだろうか。利広は微笑を浮かべて訊ねた。
「これからゆっくり考えるのではなかったの?」
「そうも思ったんだけどね」
 考えずにいられない、と言いたげに女王は苦笑する。焦らせるつもりなどないのに。利広は女王を抱き寄せ、想いを籠めて頭を撫でた。女王は小さく笑う。あなたはいつも私に考えさせる、と。利広が肯定すると、女王はさらりと本音を口にした。

「そして……こうやって私に触れるのも、あなただけだ」

 何気なく言っているようで、重い意味を持つその言葉。利広は反射的に問い返した。

「触れてほしかったの?」

 途端、女王は息を呑んで口を閉ざした。利広は動きを止めた女王を微笑んで見つめる。やがて、眼を上げた女王は、困ったように呟いた。
「──あなたは、いつも誰も訊かないことを訊くね」
 女王は軽い溜息とともに視線を逸らす。答えたくない。声なき声が聞こえたような気がした。利広は笑みを浮かべたまま女王に口づける。そして、翳りを帯びる翠玉の瞳をじっと見つめた。きっと、それだけで察してくれるだろう。
「そう……かもしれない」
 はたして女王は躊躇いがちながら首肯した。そう、君は、知らなければならない。己が抱える暗闇を。利広はくすりと笑って切りこむ。
「そう言えばよかったのに。君を拒める者などいない」

「だから嫌だった」

 その即答に驚いたのは利広ではなく、言葉を放った女王自身だった。己の言に戸惑う女王は、利広から身を離し、再び口を閉ざす。利広は少し首を傾け、黙して続きを促した。女王はやおら足許へと視線を落とす。それから、囁くように己の想いを語った。

「私の命に逆らう者はいない。それでは意味がない……」

 胎果の女王は、相変わらず己を分かっていない。そして、喪われた伴侶が王であったことをも。利広は笑い含みに訊ねた。
「命がなければ誰も君に触れることなどできないのに? そうは思わないの?」
 女王は大きく眼を瞠り、利広を凝視した。物想う女王は黙して俯く。辛いことを思い返しているのだろうと察しはついた。利広は敢えて笑みを浮かべて女王を覗きこむ。そして、耳朶にそっと囁いた。
「思わないみたいだね。だから、君には私が必要なんだ」
 そのまま抱きしめると、女王は眼を閉じて利広に身を委ねた。利広の腕にすっぽりと収まってしまうこの華奢な身体は、一国を支える王のものだ。周囲は半身である麒麟でさえ臣。生真面目な女王はいつも緊張を強いられている。誰にも明かせない本心を吐き出させるのは、女王の臣ではない利広の役目。
「――そんなこと、思ってもみなかった」
 やがて、女王はぽつりと本音を漏らして身を起こす。思った通りの答えに、利広は苦笑を零した。女王の伴侶は自身も王、女王を抱くことに躊躇はなかっただろう。そうだろうね、と利広は同意した。
「でも、君は王なんだ。許しがなければ、誰も玉体に触れることはできないんだよ」
 利広の指摘に、女王は視線を落とす。王のいない国からやってきた娘は、王の自覚こそあれど、己がどう見られているかには疎いのだ。利広は女王を見つめて微笑する。

「昔、教えてあげたのにね。ほしいものには自ら手を伸ばすんだよ。こうやって」

 そう言い様に、利広は女王をきつく抱きしめた。少し身を固くした女王は、それでも甘く息をつく。そっと背に回された腕に熱を感じた。利広は女王を見やり、笑みを送った。そのまま熱く口づける。女王は、力を抜いてそれに応えた。

 軽い身体を抱き上げて臥室へと向った。女王を牀に横たえて、己も隣へ滑りこむ。女王はじっと利広を見つめたままだった。利広は苦笑する。怖いのだろうか。その想いを口に出すと、どうして、と女王は不思議そうに首を傾げた。
「不安そうな貌をしている」
 苦笑とともに返すと、女王はびっくりしたように眼を見開いた。それから、くすりと笑って口を開く。
「見た目ほど初心な小娘じゃないよ」
「――知ってる」
 艶めいた翠玉の瞳を見返して、利広は華奢な身体を抱き寄せた。あれから幾歳も過ぎている。そして、女王の伴侶はあの風漢だった。その意味を、利広はよく知っている。
 己を抱きしめる男をじっと見つめる澄んだ瞳。覗きこむと帰ってこられなくなりそうだ。翠の宝玉は、苦笑する利広を映していた。
「相変わらずだね、君は」
 目眩を押さえつつそう答えた。翠の魔法に引きこまれる前に。利広は女王に熱く口づける。女王はようやくその勁い瞳を閉じた。

 久方振りに愛しい女を抱きしめた。初めて肌を合わせたあのときを思い起こす。無防備な女王を嗜めるつもりが、思いきり搦めとられた。逃げ出せぬよう追いつめたのに、見つめ返す翠の宝玉に魅せられてしまったのだ。輝ける瞳を閉じさせるために口づけて、止まらなくなった。風漢が落ちるわけだ、とさえ思った。そう、この娘は風漢の女だ。己の欲を抑えることなく奔放に抱きしめてみれば、驚くほど物慣れない乙女だった。
 あの頃より少し痩せた身体を丁寧に味わった。伸ばされる手を掴むと愛おしさが増していく。年月を重ねて深みを増した瞳が、優しく微笑んで利広を受け入れた。

* * *  2  * * *

 果てて眠る愛しい女の寝顔を飽かず眺めた。睫毛が揺れて、ゆっくりと眼が開かれる。利広は美しい翠が現れる様を見守った。目を覚ました女王は、利広を認めて頬を朱に染める。それから照れたように笑みを見せた。そっと身を寄せる女を抱き止める。女王は安らいだ顔をして眼を閉じた。

 見かけどおりの少女のような愛らしさに頬が緩む。しかし、陽子は王の孤独を識る女だ。利広は乱れた緋色の豊かな髪に指を絡めながら物想った。

(五百年の孤独ってどういうものなんだろう)

 かつて、女王はそう呟いたことがあった。登極当時、伴侶だった雁国の王は五百年の治世を築いていたのだ。聞いて利広は吹き出した。怪訝な貌を向ける女王に頓着することなく、気が済むまで笑い続けた。きっと、理由を言っても女王には分からないだろう。利広は拗ねた女王を煙に巻いた。しかし、今ならば。
「――五百年の孤独は理解できたかい?」
 気怠くも甘い沈黙を破って問いかけた。女王はゆっくりと眼を開け、物問いたげに利広を見つめる。微笑を浮かべて見つめ返すと、女王は小さく嘆息し、首を横に振った。

「――分からないよ」

「そうだろうね」
 利広は軽く笑った。女王は気まずげに目を逸らす。利広は女王を抱き寄せて、あのときは言わなかった答えを告げた。

「君は、独りにならない術を知っているから。私と同様にね」

 女王は大きく眼を瞠った。しばしの沈黙の後、女王は利広に問い返す。
「――どういうこと?」
「言葉どおり」
 利広は簡潔に応えを返す。延王尚隆は、伴侶を喪った己の孤独を知りたくないからこそ、独りで勝手に逝ってしまった。そして、景王陽子は己が独りにならない術を知っている。女王は深い溜息をつき、利広に背を向けた。利広は笑いを零し、その身体を後ろから抱きしめた。

「――君は、独りだったのかい?」

 問いを投げかけると、女王は動きを止めた。利広は微笑する。桜を眺めながら物想う女王を、密やかに見守る人々がいた。手を伸ばせば届く場所に、いつも誰かが立っていた。女王がそれに気づいていないわけがない。
「私は……」
 掠れた声がした。女王の腹に回した利広の手に小さな手が重なる。くすりと笑い、利広は女王の耳朶に口づけた。女王は訥々と続ける。
「独り、じゃなかったね……」
「そう、君は独りではなかった。ただ手を伸ばすだけでよかったんだよ」
 利広は女王を強く抱きしめる。そして、託された言葉を噛みしめながら告げた。

「かの御仁も、それをよく知っていたよ」

 そしてまた、時が止まる。女王は喪われた伴侶へと想いを馳せているのだろう。利広は待ち続ける。今までずっとそうしてきたように。
 悠久の時を重ねてきた。けれど、それは、この刹那の積み重ねだ。想い焦がれた日々も、愛しい女を己の腕に抱く時も、ひとつひとつはほんの刹那に過ぎない。やがて。

 女王は身動いだ。腕を緩めると、ゆっくりと振り返る。翠の瞳は、自嘲の笑みを浮かべていた。
「私は……愚かだね……」
「私にとっては幸いだったよ。お蔭で君を抱くことができたからね」
 利広は軽く本音を返した。女王は微笑して首を横に振る。利広はくすりと笑い、密やかに問うた。

「私でいいの?」

 欲しいものには手を伸ばすのだ、と教えた。その手を拒む者などいないだろう。女王は、己の意志で手を伸ばすことができるのだ。

「――あなたがいい」

 愛しい女は顔を上げ、その輝かしい瞳に利広を映した。利広は笑みを湛えて首肯する。首に絡められた細い腕の力が増した。利広の肩に額をつけて、女王は小さく呟く

「きっと……初めからあなたに惹かれていた……」

「うん、知ってた」
 愛しい女の密やかな告白。利広は笑い含みに即答した。女王は朱に染まった顔を上げる。これを告げたなら、陽子はどれだけ驚くだろう。

「私も、かの御仁もね」

 言って細腰に回した腕に力を籠める。女王は眼を瞠った。その朱唇が開かれる前に言葉を続ける。
「ほんとうは、君を訪ねて金波宮に行くことも考えていたんだよ。せっかく結んだ縁だからね」
 しかし、それはできなかった。いま思い出しても腹立たしい。利広は顔を蹙めて口を継いだ。
「でもね、せっかく逃げおおせたと思ったのに、芝草で風漢に会ってしまったんだよ」
「――そんな話、聞いたことがない」
「言わなかったからね。言えるはずもないけど」
 深い溜息をついた女王に、利広は軽く笑ってみせた。風漢との攻防が甦る。延王尚隆の本気を目の当たりにしたあの日が。驚き過ぎて絶句している女王の頬に口づけて、利広は囁いた。
「私は、天啓を信じているんだよ。だからずっと待っていた」
 きっと分からないだろう。そう思いつつ、戸惑う女王に打ち明ける。
「堯天で陽子に会い、芝草で風漢に会った。これも天啓だと思って金波宮を訪ねるのは止めにしたんだ。でも……」
 玄英宮に招聘されたあの日を思い出す。末期の決意を聞かされて詰め寄った利広に、かの御仁が放った一言。女王は小首を傾げて利広の言葉を待っていた。利広は重い口を開く。
「かの御仁が……どうして逝ってしまったか知ってる?」
 女王は静かに首を横に振る。利広は掠れた声で告げた。

「――私に会ってしまったから、だよ。君に悪いことをした」

 かつて天との勝負のために碁石を集めていた王は、いつからかそれを利広との邂逅に変えていた。公の招聘に奏の第二太子が応えたとき、それが延王尚隆の治世の終焉を告げる。利広を使ったのは意趣返しだ、と事もなげに語った男。かの御仁が利広に託した女は小さく笑い、優しい眼で見つめ返してきた。

「そんなこと、気にしなくていいよ。あのひとがそう言ったとしても、あなたを口実にしただけ」

 慈愛に満ちた翠の瞳が利広を慰撫する。一国を担う王は、その腕に利広をも包みこむのだ。
「君は独りにならない術を知っている、と言っていた」
「伝えてくれてありがとう……」
 愛しい女は美しい笑みを見せた。利広は小さく呟く。それでも君は泣かないんだね、と。女王は何も返さず仄かに笑んだ。
「――雁に行こう、ふたりで」
 またな、と最後に告げたかの御仁。その声が、いま聞こえたような気がした。

「いつか行く、と……約束、したから」
 伝えたよ、風漢。

 束の間遠くを見やる。にやりと笑う風漢が見えたような気がした。愛しい女は優しく利広を抱き返す。そして、笑みを浮かべて頷いた。

2016.05.22.
 短編「桜想」をお送りいたしました。 中編「夜想」の利広視点でございます。
 永年の想いを遂げた風の御仁ですが、その胸の内は案外複雑でございました……。
あまり需要がない作品かと思いますが、お気に召していただけると嬉しく思います。

2016.05.22. 速世未生 記
背景素材「幻想素材館Dream Fantasy」さま
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