包 容
前触れもなくふらりと現れた伴侶に、陽子はきつく抱きしめられた。苦笑を向けると、伴侶は人の悪い笑みを浮かべ、唇を近づける。そして交わされる甘い口づけ。
当たり前のように回されるその腕を、陽子は拒んだことがなかった。拒む理由もなかった。優しく、ときに激しく陽子を求める伴侶を、常に受け入れてきた。わけを問うこともなく。
「──お前はいつも何も問わぬな」
そう呟く伴侶に微笑を返した。
訊かずとも、あなたの手が語っている。
陽子に触れるその大きな手は、いつも雄弁に伴侶の想いを語る。軽口ばかり並べ立てる唇とは裏腹に、怒りも、哀しみも、淋しさすらもこの身に告げる。
そう、身の内に潜む昏い闇が濃くなるたびに、このひとは現れるのだ。そして、熱く切実に、陽子を求める。あたかも、この身だけがこのひとをこの世に引きとめる
縁だ、とでもいうように。そのひたむきな想いを受けとめたい。その昏い深淵に灯りを点したい。陽子はいつもそう思う。
今宵も陽子は伴侶の情熱に身を任せる。求められるがままに身体を開き、大きな体躯をゆったりと抱きとめる。そしてまた気づく。微かな、小さな痕跡に。
このひとがその腕に抱く女は、陽子ひとりではないと、いつしか気づいていた。女が残す痕跡がそれを知らせる。聡いこのひとでも隠しきれぬ、微かな痕跡。
それは、腕の付け根に残された小さな所有印であったり、髪を括る組紐に絡められた違う色の髪の毛だったりする。それが、いつも同じ女のものかどうかは分からない。しかし、それを見つけるたびに、陽子はその女を憐れに思う。
──こんなことをしても、このひとはあなたのものにはならないのに。
このひとは誰のものでもない。伴侶たる陽子のものにも決してならない。天かける風の如く。
陽子はその痕跡を伴侶に知らせたこともなかった。その女も、それを望んではいまい。女の望みは、恐らく陽子に己の存在を知らせること。陽子だけが知っていればいいのだ。
そして陽子は思いを馳せる。このひとをこんなに慕う女は、どんなひとなのだろう。どんなふうに、このひとを愛するのだろう。このひと自身にも、可愛らしく嫉妬して見せるのだろう
か──。
陽子のその想いは嫉妬ではなかった。嫉妬など、感じようもなかった。陽子はこのひとを愛している。そして、このひとは陽子を求めている。それは初めて会ったときから変わらない。それだけで充分だった。
陽子をその腕に抱き、目を閉じていた伴侶が、ふと囁いた。
「──陽子」
「何ですか」
「──お前は何故俺を受け入れる?」
「あなたが私を求めるから」
伴侶がいつもの問いを投げかける。陽子はいつもの答えを返す。伴侶は深い溜息をつく。
「それだけ、か?」
「それだけ、です」
陽子は渋い顔を見せる伴侶に屈託ない笑みを返す。そう、答えはいつも同じ。そして伴侶は苦笑し、口づけを落とす。
──愛してる、決して口に出さない言葉とともに。
きつく抱きしめられ、陽子は微笑を返す。不安に駆られた子供にしがみつかれた母の如く。私はいつもここにいる。もう二度とあなたを置いて逝ったりしない。たった一度の過ちが伴侶の闇をいっそう昏くしたしたことを、陽子は忘れない。
いつか必ず訪れるその日まで、このひとと共に歩む。そう誓って数多の時が流れた。このひとが心に秘める暗闇は、このひとだけのものではない。それは、陽子の内にも潜んでいる。
それは、王の孤独、という名の暗闇。年経るごとに降り積もる昏い闇。延王尚隆が五百余年抱き続ける昏い深淵を、景王陽子だけが受けとめ続けるのだ。何者にも分かちがたい、王ゆえの狂気を。
「
尚隆──」
今宵も、陽子は伴侶を抱きしめ、その名を優しく呼ば
う──。
2005.10.20.