名 前
「木鈴」と呼ばれることが嫌だった。それはあたしの名前じゃない。鈴はいつもそう思っていた。そして、「笨媽」と呼ばれることは、もっと嫌だった。
笨媽──愚か者。
鈴のかつての主は、いつも鈴をそう嘲弄した。
よく分かるわ、と祥瓊が言った。里家に引き取られて「玉葉」と呼ばれるのが嫌だった、と。そんな凡庸な名前は私の名前じゃない。祥瓊はそう思っていたそうだ。
よく分かるよ、と陽子も言った。陽子の字は赤子。髪が赤いかららしいけれど、蓬莱では「赤子」は赤ん坊を示す言葉。何も知らない赤ん坊のような王、そう言われているようで、辛かった、と。
けれど、陽子は「ヨウコ」と呼ばれても「ヨウシ」と呼ばれても頓着しない。固継や拓峰でそう名乗っていたから違和感がないんだ、とただ笑う。鈴は知っている。それでも、陽子は名を聞かれると、必ず「中嶋、陽子です」と答えるのだ。ゆっくりと、噛みしめるように、己の真の名を発音する。陽子は、やはり「中嶋陽子」なのだ、と鈴は思う。
「大木鈴」と名乗り、「鈴」と呼んでもらえることを、嬉しく思う。そんな国を作ってくれた陽子に、鈴は感謝していた。そして。
隣国の国主延王も胎果だった。そういえば、本名を聞いたことがない。延王は陽子の伴侶でなければ、鈴など顔も上げられぬ存在なのだから。
今日、景王陽子の伴侶は遅い朝食を取りに、正寝に姿を現していた。陽子は既に仕事を始めている。いつものように給仕をしながら、鈴は思わず延王をじっと見つめた。
「──どうした、鈴?」
「え、いえ……」
鈴の視線に気づいた延王が優しく微笑んだ。鈴は口籠り、目を逸らす。いくら陽子の伴侶にして型破りな延王とはいえ、失礼してしまった。鈴はそんな思いを隠せない。しかし、延王は重ねて優しく問うた。
「物問いたげな顔をしている。何を聞きたいのだ?」
「──延王、お名前はなんとおっしゃるのですか?」
「俺は小松尚隆という」
思い切って問いかけた鈴に、延王は淀みなくそう答えた。延でもなく尚隆でもないその応えに、鈴は笑みをほころばす。この方は、やはり陽子を伴侶に選んだ方だ。そんな鈴に、延王尚隆も笑みを返す。
「鈴に名前を訊ねてもらえるとは、俺は幸せ者だな」
「どういう意味でしょうか」
小首を傾げる鈴に、延王は破顔する。そして、おもむろに答えた。
「誰も王が名を持つなど、考えておらん。──王は王だからな」
偉大なる隣国の王のその言に、鈴は目を見張る。──そうかもしれない。鈴も、陽子を知る前は、王とは文字通り雲の上の偉い人だと思っていた。王に名前があり、人格があり、物思いがあるなど、知ろうとも思わなかった。神である王も、人と同じく、怒りも笑いもする血の通った者なのに。
陽子は国主景王である自分と、中嶋陽子である自分に隔たりを感じる、とよく零す。若くて愚かで胎果の自分が王だなんて、と。稀代の名君と称えられるこの方も、感じているのだろうか。延王である自分と、小松尚隆である自分の隔たりを。
己の考えに沈む鈴を、延王尚隆は面白げに眺める。そして、ゆっくりと続けた。
「俺は鈴が陽子の名を呼ぶのを聞くと、嬉しくなる」
「──?」
「陽子を景王ではなく、陽子として扱う、貴重な友人なのだな、と思うのだ。しかも、鈴は海客だからな」
「──ああ……」
陽子を「ヨウコ」と呼ぶ者は少ない。鈴が知っている限りでは、祥瓊と鈴、延王、延麒。片手の指で足りてしまう。感慨深げな鈴に、延王はゆったりと語る。
「──海客があちらから持ってこられるものは、名前と我が身ひとつだからな」
延王はそう言って優しく微笑んだ。鈴は目を見開く。木鈴、と呼ばれるのが嫌だった。それは、あたしの名前じゃない、いつもそう思っていた。でも、どうしてそう思うのか、考えたことはなかった。考えるのが、辛かった。
何もかも異質なこの世界で、何も知らないと嘲られてきた。百年こちらにいようともそれは変わらなかった。鈴があちらにいたのは、たった十二年。それでも、鈴はあちらで生まれ、あちらで形作られた。木鈴、と呼ばれ、それを受け入れることは、あちらで生まれた鈴を否定されているように思えた。「大木鈴」という人間を否定されているように思えたのだ。
「だがな、鈴。胎果は、我が身すら持っては来られん。あちらとこちらでは姿が変わるからな。まあ、俺などは自分の顔など、ろくに見たことがないから関係ないが。──女は気の毒だ。名前のみが縁だからな」
鈴ははっとする。陽子の赤髪緑眼は日本人にはありえない色。日本にいたときは、黒髪と黒い瞳を持っていたはずだ。自分の姿を認めるまで、陽子はどんなに辛かっただろう。
そして、また延王に目を向ける。この方は、本当に陽子を大切に思っているのだな。鈴は素直にそう思った。
そういえば、この方は名前で呼ばれることがあるのだろうか。
誰もが「延王」と称号で呼ぶ。延麒は「ショウリュウ」と音で呼ぶ。氾王や氾麟も音で読んでいたように思う。では、陽子はなんと呼ぶのだろう。──号で呼んでいたような気がする。鈴は躊躇いがちに問うた。
「延王は──真の御名で呼ばれることはおありですか?」
「──別に、延でも、ショウリュウでもよいのだ。己が小松尚隆であると、俺は知っているのだからな」
延王尚隆はその問いに笑みを返す。陽子と、同じ笑顔だ。真の名を持っていることを、自分がちゃんと知っていればいい。──そう思える者だからこそ、王に選ばれるのだろうか。鈴は感嘆の溜息を漏らす。そのとき。
「──尚隆」
扉がいきなり勢いよく開いた。陽子が足早に入ってきて、素っ頓狂な声を上げた。
「あっ、まだ食べてる! ──そろそろ、鈴を解放してくれないと困るんだが」
陽子は腕を組んで延王を睨めつけた。鈴は微笑した。──「なおたか」と呼ぶんだ。陽子にとって、延王は伴侶なのだから当たり前なのだろうが、初めて耳にした。
延王はそんな陽子に優しい笑みを向ける。それから、人の悪い笑みを浮かべ、鈴に片目を瞑って見せた。鈴は延王に、得心がいった、と笑みを返す。そして、また陽子を見つめた。男勝りで、ぶっきらぼうで、誰よりも優しい女王を。
「──鈴、どうした?」
「ううん、なんでもない」
訝しげに問う陽子に、鈴は晴れやかな笑みを返す。そしてまた延王に共感の笑みを送った。延王は陽子と鈴を見比べ、くすりと笑った。
陽子が延王の真の名を呼んでくれるのだ。
それがどんなに嬉しいことか、鈴はよく知っている。そして、その嬉しさを分ちあえる人がいることを、鈴はもっと嬉しく思った。
2006.05.01.
いろいろなお話を書き散らしていた3月。
その中で、少しずつ少しずつ言葉を紡いでいったのが、この「名前」というお話です。
いつも祥瓊の陰に隠れて地味な鈴ですが、色々な物思いを抱えているのだろうな。
そんな妄想から生まれたお話です。 お気に召していただければ幸いです。
2006.05.01. 速世未生 記