春の坂道
ミツガラスさま
2016/03/23(Wed) 13:43 No.100
長い長い川沿いに桜並木が続いている。それは赤子の発案で植樹された桜たち。赤楽十年の春、桜は満開に道行く人々を楽しませてくれている。麗らかで穏やかなそんな春の日の午後、その土手を奇妙な乗り物に乗る二人組が人目を引いていた。
「陽子!どう?ちゃんと走れてるだろう?」
「うん!桂桂!そうそう、これだよこれ!まさに自転車だ──」
陽子を後ろに乗せて蘭桂は息を弾ませ自転車を力強くこいでいる。でこぼことした土の道は木製の車体を弾ませ鉄の車輪は時折小石を跳ね上げる。だがペダルは滑らかに回転し、するすると人々を避け長い桜並木を風を受けて走り抜けていく。通りすがる好奇の目線も気にならず蘭桂は思わず頬が緩み笑顔になるのも止められない。目線の中には入ったばかりの大学の顔見知りも混じっていたかもしれないが、今この時の幸福を前には些細なこと。心地よい春風と美しい桜も優しく笑っているようだ。仕事や勉強の合間にこつこつと作業を進め、何年も何度も試作を重ねたこの乗り物、自転車のお披露目。蘭桂の腰にしっかり抱きついたすべらかな腕の持ち主、陽子とこのひと時を共有しているのだから。
赤楽四年の春──
天を貫く凌雲山は呪のかかった隧道が多くあるとはいえ、やはり坂は多い。雲海の上とてそれは同じ。広い広い燕朝の南西に位置する太師邸へ至る道も勿論平坦なものばかりではない。太師邸の門前には左右に竹林を備え石畳で美しく整えられた長い坂道が続いている。
太師邸を訪れるために角を曲がりその坂道を登ろうと上を見上げた浩瀚は、目の前を「避けろ!」と叫ぶ声と共に飛び込んできたものに思わず反射的に避けてしまった。だが避けない方が良かったのかと、勢い正面の潅木に大きな音を立て激しく突っ込んだ人物を見て息をのんだ。
「主上!御無事でございますか?!」
急いで駆け寄る浩瀚に陽子は全身木の葉まみれの乱れた姿で顔を上げた。大きな怪我は無さそうだと見て取った浩瀚は安堵の溜息をついたが、陽子はおそらく叱責されるに違いないと内心ひやひやとしているのか、向けた笑顔はぎこちない。
「陽子!大丈夫?」
坂の上から桂桂が焦り顏で駆け下りてくる。陽子は心配そうな二人を安心させる為にすぐに立ち上がり衣服に付いた汚れを払った。
「あはは、失敗したな。浩瀚は大丈夫だったか?」
「拙は何ともありませんが、主上、何をされていたのです。何かに乗っておられたようですが」
「あ──…これ、壊れちゃったな。そもそもハンドルが上手く曲がらなかったんだ。もう少し研究の余地があるなあ」
「…はんどる、でございますか?」
浩瀚は大破して辺りに散らばる物体を眺め見た。木片がそこらに分解されているが、その中に車輪が二つあるのが目に付いた。二輪とは随分と不安定な乗り物のようにうかがえる。
「平坦な道では問題無かったんどけど、速度が付くと制御が難しくなるようだ。ブレーキもないからなあ」
「陽子、遊びの部分の調整が必要なのかも。角度も良くなかったのかな」
陽子と桂桂は残骸を前に考え込んでいる。何の話か細部の見えない浩瀚はもっと詳しく聞かせて欲しいと太師邸の中へと誘った。
陽子が大卓子に広げた図面を浩瀚は見る。お世辞にも上手いとは言えない絵の横に説明が細々と書かれていた。二つの歪な車輪の間に顔のついた枝──おそらく棒人間と思われる──に前方の車輪から上に突き出た棒と繋がっている。解説によりそれがはんどる、というものであり、この乗り物は自転車、という名前である事が分かった。
「今作ったのは足で地面を蹴る形のなんだ。本当はペダルっていう足漕ぎ板があるんだけど、この方が作るの簡単だったからね」
幼児の玩具である木馬に車輪を付けたものだろうか、と浩瀚は薄っすら理解した。
「蓬莱ではよく乗ってたのに細かい仕組みが全然分からなくて──細部なんてまったく見てなかったんだな。とにかく二輪で、足でペダルを漕いで進む乗り物なんだ」
「二輪とは随分不安定に思えますが」
「慣れればどうということはない。むしろ楽で便利な乗り物だ。あちらでは五歳の子供だって乗ってる」
胸を張って陽子は言ったが、五歳の頃自分はまだ補助輪を付けていたことは内緒だ。
「もう少し仕組みについて覚えておられる事はございますか?」
「ええと、踏板が左右の足元にあって漕ぐとその力が鎖で歯車に伝わって後輪を回転していたような気がするんだけど──」
陽子は頭の中で頼りない記憶を思い起こしてみる。どことどんな風に繋がっていたのかなんとなく、でしか思い起こせそうにない。
「少し、預からさせていただけますか?冬官と相談すれば、形になるのでは──」
浩瀚の言葉に小首を傾げ考える様子だった陽子は、ふと桂桂の顔を見た。先ほどから一言も口を開かず静かにしていた桂桂は下を向いている。どことなく、寂しそうに見えたのは気のせいではないだろう。陽子は少し腰をかがめ桂桂の目線に合わすとにっこり笑った。
「これは桂桂と二人で作ろうって始めたのだから、このまま二人で作りたい」
はっとしたように桂桂は目を大きく見開いて、次にちらりと浩瀚を伺い見た。陽子はそんな桂桂の頭に手を置きくしゃくしゃと撫でて片目をつぶる。
「浩瀚、そういう訳でこれは内緒にしておいてくれ。どうせ今こういう物が素直に受け入れられるとも思えないし、私の息抜きにしておきたい。これからは桂桂が中心になって仕上げてくれないか?」
笑う陽子に桂桂は頬を赤く染め目を輝かせ、浩瀚も微笑んで軽く頷き御意、と拱手した。
「ですが、主上、安全な作りになるまでけして乗られませんように。桂桂も主上がお怪我しないようしっかりと作るように」
そう釘を刺すのも勿論浩瀚は忘れない。陽子は口を尖らせたが桂桂は力強く頷いた。その後桂桂は浩瀚との約束通り、納得出来るものが用意できるまでけして陽子を乗せることは無かった──
それから六年、今の桂桂は陽子の背もとうに越え、陽子を後ろの席へと座らせても軽々と自転車を漕げる青年となっている。見た目も陽子より二、三歳年嵩に見えるだろう。
風の音に混じって陽子のくすりと小さく笑う声が聞こえて、蘭桂はどうしたのかと漕ぎながら尋ねた。知らず笑っていたことに気付かれた陽子は少し照れたように躊躇いながらゆっくりと口をひらいた。
「──皆には内緒にしておいて欲しいんだけど…実は蓬莱にいた頃、こんな風に自転車に乗るの憧れてたんだ。学校の帰り道に恋人同士が二人乗りしているのいいなあって。私には縁の無い事だと思っていたけれど…それが今桂桂とこうして自転車に乗ってるなんて不思議だ」
恋人、という言葉に蘭桂の胸は僅かに弾む。深い意味がもしかしてあるのかと、どう返して良いのか言葉に詰まる。だがちらりと振り向いて覗き見た陽子の瞳は、どことなく懐かしさと切なさを込めて舞い散る桜の花びらを見つめていた。蘭桂の気持ちに沿うよりも心に過る郷愁に身を委ねているのだろうか。やはり掛ける言葉を思い付けずに蘭桂は前を向いた。自転車の速度は先ほどよりも自然と落ちていった。それに気がついた陽子ははっとしたように桂桂の服を引っ張る。
「えっと、感慨深いのは確かだけど──あちらの事よりも、今ここにいる事で叶うことが沢山あるんだって──それってすごい事だなって──桂桂、ありがとう」
背中越しに届く優しい声に、くすぐったさといつまでも『桂桂』と呼ぶ陽子にほんの少しの物足りなさが心に舞う。陽子はそんな蘭桂の気持ちなど勿論分からないのだろう、明るい調子で蘭桂の背中を軽く叩いた。
「桂桂、この自転車完璧だよ。商品化してバンバン売ろう。絶対いけるよ、これ。慶国商品として輸出もしてさ、貧乏国脱出に一役買ってもらうぞ」
現金な陽子に蘭桂は肩をすくめる。役に立てるのは嬉しいがやはりもう少し甘美なご褒美が欲しくなる──
「そうだね、きっとこんな風に乗ってればいいな、って思う人達が出て来ると思うな。宣伝は必要だから──またこうして乗ってくれる?」
「勿論!あ、桂桂に彼女ができるまで、だな」
少しからかい混じりの声で屈託なく笑う陽子に、蘭桂は狙いが外れたかと思わずため息が出る。
「──僕のうしろに…自転車に乗る女の子は陽子以外現れないと思うけど…」
「えー!そりゃ最初は女の子にはとっつきにくく感じる乗り物かもしれないけど、こんなに楽しくて便利な乗り物なんだ。女の子だって自転車に乗るようになるよ!」
陽子にはきちんと聞こえなかったのだろう、蘭桂の後ろに、との意味合いでなく、一般的な女性が自転車に乗る是非について指したと思ったようだ。訂正するのも間が悪いように思えて言葉に詰まった蘭桂に、陽子は自転車の利点を一生懸命熱く語り出し始める始末だった。
「──それにさ、約束通り『安全』に作ってあるんだろ?」
黙り込む蘭桂を伺うように尋ねた陽子に、仕方なく蘭桂はわざと得意げな声を上げた。
「そうだよ、ちゃんと『ぶれーき』もつけたからね。『変速ぎあ』も今度付けてみるから」
目を丸くして感心する陽子に苦笑いした蘭桂は前を向く。
続く目の前の桜並木は急な下りとなっていた。蘭桂は足に力を入れてわざと速度を上げる。
「坂道下るよ!しっかりつかまっててね」
突然の加速に自然と陽子の身体は蘭桂の背中へと押され、鼻がぶつかったのか陽子はふぎゃ、と可笑しな声を上げていた。笑い出す蘭桂の身体に、陽子は不満の声を上げながらもぴったりとくっついている。
桜舞う春の坂道を笑い声を残して自転車は駆け下りて行った。