「 月 夜 」
絵 ・ 文茶さま
黄 昏 (11)
* * * 21 * * *
深更に仕事を終え、自室に戻る回廊を歩きながら、陽子は溜息をついた。恐らく堂室で待ち受けているだろうそのひとに、いったい何と言えばいいのだろう。
言い過ぎた、とは思う。でも、悪いことをした、とは思わない。謝りたくは、ない。
そのひとの怒気を思うと、身が震える。しかし、今は、昨夜のように、その怒気を受け入れる気は、ない。恐らく、そのひとも分かっているはず。
暗い堂室に戻ると、そのひとは月を眺めていた。窓辺で月光浴びて立つその姿は、常とは違っていた。いつも際立つ気配を滲ませ、堂々たる存在感を誇るひとだというのに。
陽子は閉じた扉の前に立ち尽くした。まるで幻影のように、儚げにすら見えるそのひとに、かける言葉を失って。陽子はただ、声なく己の伴侶を見つめるのみだった。
扉を閉める音に気づいたか、ふとそのひとは陽子を見た。月光に照らされた顔は、微かに笑みを浮かべている。陽子は静かに問うた。
「──今宵もお待たせいたしましたか、延王」
「──いや、そうでもない」
延王尚隆は薄く笑った。それきり何も言わない。ただ、傍に来るよう目で促しただけだった。陽子は黙して尚隆を見つめる。その躊躇いを感じたのか、尚隆は喉の奥でくっと笑う。そして陽子から目を逸らし、再び月を眺める。陽子はしばしそんな尚隆を見つめ、ゆっくりと歩み寄った。
月を見やる尚隆の横顔は、自嘲めいた笑みを浮かべていた。陽子はそんな尚隆を見上げ、また言葉を失った。まるで、そのまま月に昇っていきそうな、その淡い光に溶けてしまいそうな──。
いかないで、と思わず叫びそうになった。私を、置いて、いかないで、と。尚隆はゆっくりと陽子に顔を向けた。陽子と目が合うと、尚隆は微笑し、そっと手を伸ばした。その手が肩に触れたとき、陽子は身体に震えが走るのを止められなかった。
「──俺が、怖いか?」
手を止め、真顔で問う尚隆に、陽子は答えられなかった。怖いのだろうか。──昨夜のこのひとは、確かに怖かった。しかし、今のこのひとは、まるで寄る辺を失った幼子のように頼りなかった。
──何故。どうして。
黙して見つめる瞳に涙が滲んだ。嬲られたのは、苛まれたのは、陽子のほうなのに。身体に刻まれた痕も、心に灼きつけられた怒気も、まだ鮮明に残っている。それなのに、陽子を踏みにじったはずのこのひとは、陽子よりも傷ついているように見えた。
陽子を見つめる双眸は、昏い深淵を露にしていた。優しい眼差しを向けながら、陽子を虐げる、このひとのもつ、昏い闇。あれだけ苛まれても尚、陽子はこの暗闇に惹かれる。
(──そんなに俺を買いかぶるな。手痛くお前を裏切るやもしれぬぞ)
かつて、このひとは、そう言って皮肉に笑った。己の持つ暗闇が陽子を苛むことを、このひとは知っていたのだろうか。──それでも、陽子はこのひとの抱く昏い深淵に灯りを点したいと思う。そう思わずにはいられない。それくらい、陽子はこのひとに囚われている。
こちらを受け入れることは、このひとを受け入れること。
陽子にとって、そのふたつは同義だった。このひとを拒むことはできない。如何に苛まれても、陽子は、このひとを、愛している。そして、このひとは、それを知っている。
──あなたはずるい。
心でそう責めると、涙が一筋、零れた。
「──私は……誰のものでもない……」
陽子の小さな呟きに、尚隆は薄く笑った。もとより承知だ、といつもと同じ応えが、微かに聞こえた。陽子はもう涙を堪えることができなかった。
頬を伝う幾筋もの涙。それが答えだった。尚隆は穏やかに微笑み、口づけを落とした。そっと抱き寄せる優しい腕。そして零れる涙を拭う温かな唇。陽子はその広い胸に身を預けた。
2006.09.20.
「祝11周年黄昏祭」にてマルチな活躍をしてくださった文茶さんから
長編「黄昏」の挿絵をいただきました!
「陽子を傷つけた尚隆の方が深く傷付いている、
という切なさを表現したくて描いてみたのですが……」とのお言葉どおり、
かの方の貌が切なく、胸打たれます……。
この作品を書き上げたのはもう10年も前になります。
そんなに昔のような気もしないのですが、今尚ご覧いただけて作者冥利に尽きます。
有難き幸せにございます〜。
文茶さん、素敵な連鎖妄想をありがとうございました!
(無断転載厳禁。勝手にお持ち帰らないでくださいね!)
2017.01.30. 速世未生 記
背景画像「翠琅庵」さま