「宝重庫」 「玄関」

桜、散る

作 ・ griffonさま

 堯天山の麓、王都であり瑛州の州都でもあるこの街の、卯門に近い一区画の大半を占めているこの館では、多くの老人達が長くは無い余生を送っていた。元々この館は、格式で言えば、かなり上位の宿館だった。彼らは、戦乱や荒廃で身寄りを失った慶の民であったり、どこかの国の荒民であった。幾人かは黄朱の民であったり、朱旌を割られた者達であったりもした。ほとんどの部屋は、六人か九人の共同の臥室であったが、特に看護を要する者用に一人房室もあった。館に囲まれた園林の真ん中には、ふっくらとした薄紅色の毬のような花をつけた老木が、枝一杯に花を咲かせ、時折吹く穏やかな風にその花弁を舞わせていた。蓬莱に言う、泰山府君と言う桜に似た種類かもしれない。飯庁には比較的元気な老人達が卓を囲んで、とっておきの茶を飲みながら、その景色を楽しみ話し込んでいた。思いのほか明るい喧騒が、飯庁にはある。
 その喧騒から隔絶されたように、九人房室の園林側の臥牀で、一人の年老いた男が横たわっていた。房室には彼一人きりだった。その男にかけられた、柔らかな布団が規則正しくゆっくりと動いている。男の目は半眼に開かれていて、開け放たれた窓から見える桜を見ていた。
 「今頃はぁお城の桜も、こがな風に舞っちゅうろうか」
 常世の言葉ではない呟きは、彼の頭がのせられた枕にしか聞こえないほどの声だった。彼にとっての「お城」は、堯天山にある金波宮の事ではない。遥か昔に、帰ることが叶わなくなった故郷にある高知城の事だ。彼の故郷にあって、桜の名所として知れられた場所でもあった。今頃の季節になると、母親が作った弁当を抱えて、その城山に出かけたものだが、最後にその桜を見てからどのくらい経ってしまったのか。
 彼自身にもわからなくなってしまっていた。ひとつ大きく息をすると、彼は房室の天井に視線を向けた。
 ――あのいとさんは、今頃どないしちゅうろうか。しょうえい事など何一つ無い人生じゃった。人を恨き、自分自身の境遇を恨き生きてきた。けんど、あの時を境に何かをせんとと思えるようになったがは、中嶋陽子ゆう、いとさんのおかげじゃったがかもしれん――


 正寝の執務室で筆を取っていた陽子は、祥瓊が入室してきたことに気がついて、顔を上げた。この時期は何かと忙しく、公休日もろくに休んでいないことを、祥瓊は心配していたが、それでも公務は次から次へとやってくる。祥瓊の顔をみて陽子は、大丈夫だからと言うように、にっこりと笑った。
 「浩瀚様がおみえになったわ」
 その声に続いて、浩瀚が姿を現した。
 入り口で優雅に拱手すると浩瀚は、ゆっくりと入ってきた。
 「申し訳ありません。急ぎ御璽をいただきたい書面がありますので」
 陽子の正面に立った浩瀚は、いくつかの書面の束を卓子に置いた。書面をとった陽子は、内容を確認していく。時折浩瀚に説明を求めるが、登極当初のように一から十まで説明を求めることは無い。確認をし、御璽を押す。書面を受け取った浩瀚は、拱手した。だが、陽子の前から下がろうとはせず、懐から一通の書簡を取り出した。陽子はそれに気づかずに公務に戻ろうと、顔を卓子の書面に向け筆を取りかけたが、ふと顔を起こして浩瀚に声をかけた。淡い笑顔を浮かべて、何かございますでしょうかと、書簡を手にしたまま浩瀚は言った。
 「以前私の我侭を通して作ってもらった、あの館はどうなっているだろうか」
 「身寄り無い老人達の介護の館のことでしょうか」
 陽子は頷いた。
 「未だ予算を割く余裕が無く、今もって拙めの私費と言う形ではありますが、なんとか維持はしております」
 眉を顰めた陽子は、唇を強く結ぶと浩瀚に頭を下げた。
 「すまない。やはり理想と現実は、まだまだ乖離したままなのだな」
 笑顔を少し大きくした浩瀚は、少しうなだれた陽子を見た。
 「我が主上」
 普段以上にその声に含まれる優しい響きに、陽子は顔を上げた。
 「御心配なさらずとも、いずれ追いつきましょう。そのために、我々臣一同、細心しております」
 陽子は淡く笑顔を作ってはいた。
 「・・・主上には松山と言う海客の者にお知り合いはいらっしゃいますか」
 意外な事を問われたと言うように、陽子は目を見開いた。
 「それが?」
 「件の館から、今朝ほど知らせが参りまして、その者から書簡を預かったのだそうです」
 浩瀚は、手にしていた書簡を陽子に手渡した。
 「この者は、既に書簡をしたためるほどの体力も無かったため、口述したものを介護の係りの者が書きとめた物なのですが」
 『あの折は、大変失礼な事を致しました。酷い仕打ちをしてしまった私を、許してはもらえないことは、重々承知しておりますが、それでもお詫びを申し上げたく思います。主上の御威光によりここまで生きながらえました。人生の最後の時が、幸福に包まれておりますのも、主上のおかげでございます。お詫びと共にお礼を申し上げます』
 丁寧な筆致で書かれた書簡を見終えた陽子は、思わず席を立った。
 「少し下に降りてくる」
 そう言い置くと、陽子は執務室を飛び出していく。浩瀚も後を追った。禁門から吉量に乗って飛び立った陽子と浩瀚は、あの館の中庭に直接降り立った。二人を見かけた家人が、慌てて館の中に駆け込んでいく。
 慌てた様子の家公と共に、二人の前に走ってきて拱手する。
 「松山さんは、どちらに」
 陽子を案内しながら、家公は松山が昏睡状態にあり、面会しても話は出来ないだろうと説明した。二階にある特別看護用の単独の房室に通された陽子は、松山の横たわる臥牀の傍に立った。息をしているのかどうかもわからないほど、松山は静かに眠っていた。
 「書簡をいただいたのは、貴女だろうか」
 陽子は、臥牀を挟んで座っている女性に聞いた。その女性は頷くと、書簡を書きとめた直後から、松山は昏睡していることを告げた。
 あの時、拓丘の場末の宿で見た松山に比べて、憔悴してはいるものの、その容貌は穏やかだった。あの時最後に見た松山の目は、堅く冷たかったように思えたのだが。
 臥牀の傍に立ったままの陽子は、身を屈めると松山の耳元に顔を寄せて呼びかけてみた。ぴくりと瞼が動き、ゆっくりとそれは開いていく。
 「・・・すまんかったなぁ、いとさん。いとさんにゃ、まっこと酷い事をしたと後悔ばかりしよったがよ。その上こがぁに世話くじゅうてしもうた。一言すまんかったと。許したちもらえるとは思ってはいやぁせんが、ほきも、一言許しとおせと言いたかったがやか」
 途切れ途切れにそう言うと、松山は瞼を閉じた。言いたいことはすべて言い終えたと言う様に、大きく一つ息をした松山は、それきり動かなくなった。


呉渡の港町から南に下った武州の最も東の端にある、虚海に突き出た岬に、陽子と浩瀚は立っていた。そこからは、黒々とした虚海が見渡すことが出来た。荼毘に付した松山を収めた小さな素焼きの壷を、浩瀚の手を借りながらその岬に埋め、その上に染井吉野の苗木を植えていた。その染井吉野はまだ慶東国では珍しいため、尚隆から譲ってもらったものだった。虚海から吹く風に弄られて、紅い髪は陽子の顔に纏わりついていた。
「松山様が、どのような境遇にあったか、お知りになりたいですか」
浩瀚は、虚海を眺めている陽子の背中に問いかけた。首を左右に振ると、陽子は髪を押さえながら振り返った。
「最後に見た松山さんの顔は、なんだか穏やかだった。だからいい」
浩瀚の顔を見て、陽子は微笑んだ。
「魂魄だけでも、あちらに帰ることが出来ると良いのだけれど」
そう言うと、浩瀚を促して歩き始めた。
「わたしは、例え魂魄になるときが来たとしても・・・」
虚海から吹き付ける風が、後に続く陽子の言葉をかき消してしまった。仙であっても、聞き取ることは叶わなかった。隣を歩く浩瀚の手をとると、ぎゅっと握り締めて歩いてゆく。浩瀚は微笑んだまま、手を握り返した。


―了―
 「海客楼」griffonさまが3周年記念として太っ腹フリー企画を催していらっしゃいました。 その折に今年の「桜祭」にご投稿いただいた「桜雲」の元となるこの「桜、散る」を 無心した管理人でございます。  実は3年前の本家「十二国桜祭り」ご投稿の折より大好きな作品なのでした。
  アップは祭ログと同時になるという我儘なお願いを快諾してくださったgriffonさん、 ほんとうにありがとうございました!
 尚、続編「桜雲」は 「2009桜祭跡地」 よりお入りくださいませ。(別窓開きます)
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(無断転載厳禁。勝手にお持ち帰らないでくださいね!)

2009.06.12. 速世未生 記
背景素材「花素材mayflower」さま