「宝重庫」 「玄関」

海に預けた願いごと

作 ・ 饒筆さま

 さやさやさや。伸び盛りの稲が揺れる。強い日射しに、田の水面と蜻蛉の羽がキラリと光る。
 大地を吹き抜ける風と共に駆ければ、一面の緑野は光を生んでうねり、追い縋る葉ずれの音が実に爽快だ。乗り慣れた吉量の足も軽い。
 驚いて腰を伸ばした農夫に手を挙げて詫び、ひらりと舞いあがったところで、茫漠たる青の水平が見えた。
 海だ。懐かしい。青海だ。自然と笑みが零れる。
「柴望! 青海が見えたぞ!!」
 振り返って叫べば、
「さ、左様ですかぁ〜!」
 老いた天馬でゆっくり後を付いてくる柴望が、ひいこら言いながら叫び返した。
 仕方なく旋回して待つ。
 そして、汗をかきかき、やっと追いついた柴望へ、呆れ顔を向けた。
「飛んでいるのはその天馬であって、おまえではなかろうが。何故そこまで息が切れる?」
「いえ、どうも、頑張っているこの子と、同じ気分になってしまって(ぜいぜい)」
 見れば、柴望と一緒に年寄り天馬も舌を出して荒い息をついている。やれやれ。
「青海を見たいと言い出したのはおまえだぞ? やはり、和州の温泉あたりで骨を休めれば良かったのではないか。その様子では、主上がお命じになった『親孝行』にはならないだろう」(まあ、おまえは親ではないがな)
「いいえ! せっかく休暇とお供のお許しをいただいたのですから、なんとしても青海を見に行きとうございます」
 柴望はその一点に妙に固執する。頑是ない子供のように首を振る様子に、頬が緩んだ。
「麦州に里心がついたか」
「そういう訳ではございませんが……」
 今度は柴望が輝く海を指し、にこりと笑う。
「そろそろ預けたものを確かめに行きたいのです。閣下もご覧になればおわかりなりますよ」
 浩瀚は軽く片眉を上げる。(何のことだ?)
 それから騎獣の首を並べ、海に向かってゆったり進んだ。
 徐々に広がる明るい青。穏やかに躍る白い波。吹きつける潮風の香を嗅げば、まるで子供のように心が逸る。
――確かに私も、久しく遠ざかっていたこの海を見たかったのかもしれない。
 再び浮かんだ笑みを見て、柴望は至極嬉しそうに相好を崩した。


◇◆◇◆◇
 
――今日の浩瀚様は、晴れ晴れとした良い御顔をしておられる。
 柴望は目を細める。
ああ懐かしきかな、青海。何度も眺めたこの海を、初めて見に来たのは、どれほど昔のことだろう。
 あれは……そう、この御方がまだ少年の日だった。
――なあ浩瀚、海を見に行かないか。
 念願の国官になって一年目。鬼節(中元節)にて休みを貰い、金波宮から帰省したついでに松塾へ立ち寄ったら、稀代の神童(彼をよく知るものは魔童と呼ぶ)は薄暗い書庫の奥に引き籠っていた。
「こんなに良いお天気なのに! 一歩も外へ出ないなんて身体に悪いよ!」
 いくら私が誘い出そうとしても、彼は面倒臭そうに顔をしかめるばかり。
「外は暑いだけだ」
 そこで「海を見に行こう」を口実に、むりやり襟を掴んで小旅行へ連れ出した。
 わざと徒歩で旅をした。案の定、特殊な環境で育った彼には普通の百姓の暮らしが興味深いようで、始終きょろきょろしたり、農夫を質問攻めにしたりしながら楽しく道中を歩いた。
 そしてその果てに、輝く海を目の当たりにして。彼は呟いた。
「これが青海か……その名の通り青いんだな」
「ああ、そうだね」
「なあ先輩。雲海もこんな風に青いのか?」
「雲海? いいや、雲海はもっと色が淡くて透き通っているよ。波間に地上が見えるくらいだから」
「ふうん。そうか」
 白い入道雲がもくもく立ち昇り、押し寄せる波頭が照りつける陽光を跳ね返す。躍動する海から目を逸らし、少年の浩瀚は足元の石を蹴った。
「こんな僕でも、雲海上の宮城に上れば、誰かの役に立つことが……何かを慈しんで育て上げ、実りをもたらすことができるんだろうか? あの百姓たちのように」
 眩しい夏に取り残された、哀れな影がひとつ。
 水平線の彼方を探るその眼差しは、どこか飢えて乾いていて。
 私は、ただそっと、肩に手を乗せることしかできなかった。
「大丈夫だよ、浩瀚。君の人生はこれからだ。きっとできるさ。君ならなれるさ――万人を慈しむような素晴らしい為政者にね」
 それから、その言葉は現実になった。
 月日は流れ、彼は確かに雲海を臨む宮城に上り、麦州を預かる為政者となったのだ。
 だが。雲海を透かして青海を望む、その横顔が晴れることは決して無かった。
 比王の崩御。長引く空位。凶作に飢饉、跋扈する妖魔、天変地異。掌中から砂がこぼれるように人命が失われてゆく、そんな悲劇との苦闘には天の救いさえ無かったからだ。
 ただひとつ幸いなことに、麦州には港があった。水軍を増強して海上の妖魔を討ち払い、なんとか青海航路の中継港としての機能を守れば、立ち寄る他国船のおとす外貨や細々と続く交易による利益が州府を潤し、義倉を整え、灌漑事業を行うことができた。まさに青海航路は生命線、領民一同、海に縋って生き永らえたと言う訳だ。
 そうして死に物狂いで迎えた新王の御世は――これがまた、肩の荷を下ろす間もなく、谷底へ転落するがごとく傾いた。女人追放令。呆気なく響いた二声。続く激しい内乱。ここでも彼は義を貫いて闘い続けたが、ついに州城を包囲され――ある朝、遠い青海を眺めて呟いた。
「柴望。総攻撃を受ける前に、私は投降する」
「な、何をおっしゃいます……!!」
「この一命で三千の兵を救えるのなら安いものだ。まあ待て、柴望。そんな顔をするな。なに、勝算が全く無いわけではない。偽王軍は既に天下を取ったつもりで、新王府での地位を巡る内輪揉めが始まっているらしい。あの揚候までしゃしゃり出てきたんだ、征候だけで抑えは効くまい……征候が揚候の麾下に下らぬ限り、私は殺されないだろう。揚候に対抗するためには私が必要だから――生きていれば、いつか好機も巡るはずだ」
「しかし! そんな頼り無い話をあてにはできません!」
「確かにな。だがもう、馬鹿げた賭けに出るしかないだろう」
 奇しくも時は夏。ひときわ眩く煌めく海を、やはり乾いた哀しげな目が見遣る。
「麦州と言う畑に鍬を振るい続けてきたが、たいした実りをもたらすことはできなかったな――なあ、柴望。無論このまま諦めるつもりなど無いが、万一が在った場合はおまえが」
 私は口を大きくひん曲げた。
「そんな御話は聞きません! 必ず、此処へお戻りになるとお約束ください。そうでなければ、この部屋から一歩たりともお出しすることはできません!」
「あのな」
 彼は反論しようと向き直ったが、渾身の力で睨みつける私を見、呆れたように眉を下げた。苦笑が浮かぶ。
「……そうだな、善処しよう」
「いいえ。確約してくださいませ」
「……わかった。また、この光景を見に戻ろう」
「お約束ですよ」
「ああ、青海に誓う」
 彼が帰還を誓うなら――私は何を誓おうか。
 思索の淵に沈む横顔から、遠く広がる海へと視線を移す。
 留守を無事に預かるだけでは足りない。
 いつか彼がその本望を果たし、一点の曇りも無く晴れやかな心で臨む日が来るように――全身全霊で支えるから、全力を尽くして実現させるから。どうかその日を待ってください、青海よ。どうか貴女の加護をください。
――誓いというより、願い事になってしまったな……。
 ほろ苦く見つめた海は、果てしなく青く鮮やかで。
 あの色はまだ、この胸の内に褪せず生きている。


◇◆◇◆◇
 
 遠い昔徒歩で辿り着いた断崖へ、今は空から舞い降りる。
 騎獣たちに餌をやり休ませてから、心新たに青海を臨んだ。
 懐深く全てを抱き込むような青。陽光を乗せて躍る波。力強く、また魂の根に囁きかけるように打ち返す潮騒。
 その姿はまったく変わらない。だが、決定的に何かが違う。
 旧知の友に、否、己を待っていた偉大なる母神にまみえた気がして、穏やかな喜びが湧いた。
――楊浩瀚、ただいま戻りました。
 軽く一礼して、解けた心のままに笑う。
 肩を並べる柴望が、なにやら嬉しそうに浮かれて問う。
「憶えておいでですか、閣下。此処で初めて海をご覧になったときに、おっしゃった言葉を。何かを慈しんで育て上げ、実りをもたらすことは出来ましたか?」
「そういや、そんなことも言ったな……」
 軽く首を捻る。すぐに思い浮かんだのは、紅髪の女王だ。私に『親孝行』を命じて、今頃、のんびり羽を伸ばしておられるだろう。
 慶国に素晴らしい実りをもたらすのは、紛れも無くかの御方だ。お仕えする自分に何ができるものでもないが――それでも。
「そうだな。そんな大望は果たせないが、やっと……少しは、足るを知ったかもしれないな。忙しいが充足しているよ」
 柴望の笑顔が満面に広がる。
「それは、本当に良うございました」
 ほんに……ほんに、ようございました。
 噛みしめるように呟く柴望の目尻に、小さな嬉し涙が光っていた。


<了>

* * *  饒筆さまのコメント  * * *

 先日いただきましたリクエスト作品が仕上がりましたので、お贈りしますね!
 5つのお題を眺めたとき、最初におじさまが降臨なさったので、 トップバッターです(笑)
 「おじさまが報われる話」とのお題でしたので、ほのぼの&いいお話を目指しました。 赤楽十一年夏の設定で、一点、浩瀚の「氏」だけが捏造です。 (原作には書いていないので、ジョークで朱衡さんと同じにしました。 拙宅の二人は仲が悪いのですが、それなのに先祖・子孫関係疑惑があったら面白いなあと) お気に召していただけると幸いです。
 この度は素敵なリクエストをありがとうございました!!
 「蘭筆乱文」饒筆さまが1周年記念にリクエストをお受けくださるということで いそいそと応募してまいりました。
 お題は「ほのぼの、CPなし、いつも献身的なおじさま、 たまには報われてもよいのではないかと……。閣下、頼みますよ〜」なお話。
 というわけで、 いつもドSな閣下がおじさまと仲良く里帰りするお話を 書いていただきました〜。
 まあ、トップバッター! なんと魅惑的な響きでございましょう。 光栄でございます〜。
 長い付き合いの二人だからこそ、こんなふうに思い出を共有して立つことが できるのだな、と思います。 そして、「親孝行」させる陽子主上も粋ですね♪
 饒筆さん、素敵なお話をありがとうございました!

(無断転載厳禁。勝手にお持ち帰らないでくださいね!)

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2012.08.16. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま