願 事
作 ・ 速世未生 / 絵 ・ けろこ
* * * 1 * * *
翠の瞳が覗きこむ。
煌く光を湛えるその双眸は、南国の海のようだった。城下の街が透けて見える北国の青い雲海とは違う、暖かく底の見えぬ深い深い海。
魅せられる。引き寄せられる。吸いこまれてしまう──。
翠の瞳の抗いがたい誘惑。尚隆は目眩を覚え、細い腰を抱く腕に力を籠める。そして、己を保つための唯一の手段を講じようと、麗しき伴侶に顔を近づけた。
* * * 2 * * *
深い色を湛えた瞳を真っ直ぐに覗きこむ。
昏い深淵の如き底知れぬ双眸は、揺るぎなく輝く光をも宿し、まるで、街の灯りを透かす夜の雲海のようだった。
陽子は飽かず伴侶の瞳を見つめる。光と闇とを併せ持ち、揺らぐことのない瞳を。そして今日も同じことを思う。
このひとは、いつもこの目に何を映しているのだろう。願わくば、同じものを共に見つめたい──。
切なく思えば思うほど、伴侶の唇は陽子の願いを阻む。しかし、今日の陽子は、己の顔に近づけられた伴侶の頬に手を伸ばし、首を横に振った。訝しげに眉根を寄せる伴侶の瞳を、陽子は再び覗きこんだ。
* * * 3 * * *
尚隆は、そっと輝かしい翠の宝玉から紅い唇へと視線を移す。そして、その瑞々しい果実を味わうべく、伴侶の華奢な身体を引き寄せた。
しかし、物問いたげな朱唇に触れる直前、伴侶は尚隆の頬を小さな両手で包み、微かに首を振った。
常とは違う、その反応。尚隆は控えめに口づけを拒む伴侶を訝しげに見つめた。伴侶は仄かに笑み、そしてまた、凪いだ海のような瞳で尚隆の目を覗きこむ。
優しく触れながらも尚隆の頬から離れない掌は、伴侶の確かな意思を感じさせる。美しき女王に柔らかに捉えられ、尚隆は苦笑気味に問うた。
「──どうした?」
* * * 4 * * *
「もう少し……」
見つめていたい。
胸で想うその一言を告げられなくて、陽子は口籠る。微かな応えは途中で消え入り、最後まで聞こえなかった。尚隆は片眉を上げ、目を逸らさずに問うた。
「──もう一度」
澄んだ翠の瞳が、漣のように揺らめいた。小さく息を呑んだ陽子は、ほんのりと頬を染めて目を伏せる。尚隆はくすりと笑い、揺れる翠の宝玉を自ら覗きこんだ。
夜の海のような尚隆の瞳が、静かに陽子を捉える。その眼差しに惹かれ、陽子は小さな声で願いを伝えた。笑みを湛えた尚隆は、優しく頷いた。
* * * 5 * * *
「もう少しだけ……このままでいて……」
伴侶ははにかむような笑みを見せる。それから、小さな声で、呟くように、少女のような願いを告げた。
紅の女王の、慎ましやかでいながら心揺さぶられるその願いを、拒むことができる者がどれほどいよう。そして、真っ直ぐに見つめ返すこの眼差しに呑まれずにいられる者は、はたしているのだろうか──。
延王尚隆は景王陽子の願いを容れ、笑みを湛えて頷いた。互いの瞳に互いの姿が映りこむほど、間近で見つめあう。
音が消え、時が止まった。
目に入るものは、翠の漣と、紅の光のみ。今、ここに二人きりだ。己と伴侶だけの静謐な世界が、ここにあった。
* * * 6 * * *
そのまま二人は見つめあう。まるで合わせ鏡のように、互いの瞳が無限に映りあっている。
このまま、この瞳に入ってしまいたい。
そう思いつつ、陽子は存分に伴侶の双眸に見入った。
喜怒哀楽、様々な色を見せながら、決して揺らぐことのない伴侶の瞳。迷い惑うことばかりの陽子の標でもある王者の眼は、優しく陽子を見つめ返す。陽子は感嘆の溜息をつき、身も心も包む伴侶の首に腕を絡めた。
不意に陽子の腰を抱く伴侶の腕から力が抜ける。見上げると、伴侶は目を閉じていた。まるで、心がどこかへ抜け出してしまったかのようなその貌に、陽子は少し狼狽えた。
不安に駆られた陽子の問いに、伴侶はゆっくりと目を開ける。夜の海の漣に、陽子の胸が波立った。
* * * 7 * * *
やがて伴侶はほうと息をつき、尚隆の胸に頭を預けた。華奢な手がゆっくりと尚隆の首の後ろで組まれる。伴侶の身体を抱きながら、尚隆は白昼夢に酩酊したような覚束なさを感じた。
目眩を覚えて目を閉じると、未だ翠の波間に漂っているかのようだった。底知れぬ深い海に抱かれるが如し心地よい浮遊感。己を包む、強く優しく暖かな波を、確かに感じる──。
「どうしたの?」
不安げに問いかける声で我に返る。ふ、と息をつき、尚隆は目を開けた。そして、瞳を揺らめかせて見つめている伴侶を見下ろし、笑い含みに本音を告げた。
* * * 8 * * *
「──酔った」
思いがけない一言に、陽子は首を傾げる。笑いと艶を含む尚隆の声が耳に響いた。
聞き間違いだろうか、酔った、と聞こえたけれど──。
陽子は思わず目で訊ねる。
「──?」
物問いたげに小首を傾げる陽子に女王の威厳はない。尚隆は低く笑い、もう一度、同じ言葉を口にした。
「お前に、酔った」
そう、願いを容れた見返りを求める余裕もないほどに、翠の魔力に酔わされてしまった──。
たちまち見開かれる瞳。半開きのまま絶句する唇。そして朱に染まる柔らかな頬。尚隆は笑いを堪え、未だ己の力を知らぬ陽子の火照った頬に口づけた。
2008.07.12.
短編、というより散文? な「願事」をお届けいたしました。
私のおねだりに「つやすがた」にて応えてくださったけろこさんへの捧げ物でございます。
お題は「陽子主上の願い事を『無償』で叶える尚隆」でございました。
──「無償」!? 無理すぎる〜! と、かなり難産いたしました。
しかも、リクエストにお答えできているかどうかも定かではございません(威張るな)。
ですが、私にはこれが限界かも……。どうぞお許しくださいませ!
お気に召していただけると嬉しいです。
「陽子さんの瞳が頭の中をぐるぐるして、描きた〜いとなっってしまいました」
とのコメントとともに、けろこさんから今度は挿絵をいただいてしまいました!
──けろこさんの創作意欲を刺激できて嬉しく思います!
なんだか、波の音が聞こえてきそう……。
けろこさん、ありがとうございました! (2008.07.21.追記)
(無断転載厳禁。勝手にお持ち帰らないでくださいね!)
2008.07.12. 速世未生 記