「宝重庫」
「玄関」
母へ贈りし歌
作 ・ ネムさま
一体、あの会話を何度繰り返したことだろう。
牀もしくは榻に蹲る祥瓊へ、母親の佳花が優しい声音で尋ねる。
「まぁ祥瓊、どうしたの?
今日は州候方の前でお歌を歌うのでしょう。皆様、楽しみにされているのよ」
歌は、時に舞や箏の演奏、詩の朗詠などに変わる。
「今日は気分が悪いの。他の娘に変わってもらって」
「それは困ったわねぇ」
口では困ったと言いながら、佳花の声音は軽やかだ。
「あなたの代わりを務められそうなのは、この前主上の御前で歌を披露した娘くらいでしょうけど…」
わざとらしく口ごもる佳花へ、祥瓊は訝しげに顔を上げる。
「いえねぇ、その娘の父親が賂を受け取っていたとかで、捕まったんですって。
まさか罪人の娘を、主上や州候の前に出すわけにはいかないでしょ」
佳花は陶器のような白い手を伸ばし、愛娘の頬を撫でる。
「ね、せっかくの宴が台無しになっては、お父様が困るでしょ。あなたは公主なのだから」
「そうね」
祥瓊はつんと唇を尖らせながらも頷く。すると、それを待ち受けていた女御達が、あっという間に祥瓊を囲み、華やかな宴に相応しい装いへと変えていく。それを見ながら、佳花は満足げに微笑んでいた。
その日金波宮の内殿は、どことなく浮き立っていた。前夜に景王の計らいで、内殿で働く下級官吏や奄奚の為に、宮廷楽士の演奏会が行われたのだ。楽の音色の美しさや、合間の上索(かるわざ)の面白さ、そして何より歌姫の澄んだ歌声を、一晩立った今日も、皆集まれば賞賛した。
宮中の軽い熱気を避けるように、祥瓊は人気のない回廊を歩いた。
昨夜、祥瓊も同僚の女官達と一緒に、演奏を楽しんでいた。しかし歌姫が歌い始めてからしばらく経つと、次第に祥瓊の表情が沈んできた。周囲が気付き心配し始めたのを機に、祥瓊はその場を抜け出した。そして一夜明けた今も、笑みが戻ることは無い。
祥瓊は回廊の柱に凭れ、野趣に富む院子を見つめる。しかし視線の先に浮かぶのは、鷹隼宮の日々、そして母の姿だった。
昨夜聞いた歌は、祥瓊が鷹隼宮の宴でよく歌った曲だった。公主だった彼女の歌を、誰もが褒めそやした。しかしある時、祥瓊が驚くほど上手く、美しい声で歌う少女が現れた。中級官吏の娘だと言う少女は、しばらくの間、宮中の宴に必ずと言っていいほど招かれていた。だが少女の父親が収賄の容疑で捕縛されたと同時に、その姿を見ることは無くなった。その歌声は、昨夜の歌姫の声によく似ていた。
美しい歌声に被さるようにして、凛とした男の声が聞こえる。
― 他の女子の公主よりも利発なるを妬み、罪を捏造し讒言し ―
父の首を下げて来た男―恵州候月渓の言葉を、あの時の祥瓊は理解出来なかった。しかし昨夜、歌姫の声に皆が聞き惚れている様を見ているうちに、ふと脳裏に『私も以前は…』という思いが浮かんだ。その時突然、母とのやり取りが甦った。
常に人々の賞賛に囲まれていた当時の祥瓊にとって、他の娘が人の注目を浴びるのは、決して愉快な出来事ではなかった。しかし幸か不幸か、祥瓊は才能の差を理解する聡明さも持ち合わせていた。そして、悔しさと情けなさに動けなくなった祥瓊を、常に救い出してくれるのは、母の佳花だった。
佳花は祥瓊を励まし、時には娘の我が儘を叱り、祥瓊をより美しく秀でた少女にと導いた。そうした母娘の努力に天が報いたのか、必ず最後には祥瓊が残った。正確に言うと、祥瓊の存在を脅かす少女達の家族のいずれかが、不祥事を起こすのだ。
当時の芳では前王の悪政の名残か、不正を起こす官吏が多く、父王仲韃を嘆かせていた。佳花は夫の苦悩をよく理解し、助言もしていたようだった。
― お気の毒なお父様 ―
母がそう言う度に、祥瓊も同じ言葉を繰り返した。父を苦しめる者の娘など、どれ程才能があっても許されるものではない。だから祥瓊は、自分がその少女達を不快に思うのは、父の為なのだと納得していた。
「何て愚かな」
祥瓊は呟いた。自分より才能のある少女達が都合よく消えていくなど、幾度もあるはずがない。そこには人間の意図が働いていたのだと、どうして気付くことが出来なかったのか。
― いいえ。私は気付いていたのだ ―
違和感はあった。遊び相手の少女達が変わる速さが、徐々に増してきた。視線を向けても逸らされることが多くなった。何故なのか、母に尋ねたかった。
しかし祥瓊は出来なかった。“それ”を母に問うことは、そのまま母を喪うことに通じると、彼女はどこかで気付いていたからだった。
「何も知らないなんて。自分で自分に嘘を吐いていただけだった」
祥瓊はきつく目を瞑った。
自ら閉ざした目に、柔らかな闇が重なった。
「だ〜れだ」
聞き慣れた声に、思わず涙がこぼれた。
「どうしたの、祥瓊」
鈴の慌てた口振りに、祥瓊は首を振った。
「ごめん。丁度目に塵が入って…」
その言い訳を信じたかどうか、鈴は手巾を祥瓊に手渡すと、すぐ話し始めた。
「女官長がね、祥瓊に今度新しく入る女御達へ花の活け方を教えてもらいたい、っておっしゃったの。やったね」
「やった、て?」
「だって私達が金波宮(ここ)に来た時、どこの馬の骨が主上に取り入ったんだ、って顔をしていたじゃない。でも祥瓊は何も言わないで、陽子の手伝いを一生懸命しているでしょ。それがようやく認められたのよ」
「それは鈴も同じじゃない」
苦笑する祥瓊に、鈴は少し首を傾げた。
「もちろん私も頑張ったけど…でも祥瓊は自分の仕事だけじゃなく、何げない所に花を活けたり、文物の置き場所を工夫したりしていたじゃない。皆、祥瓊が手を加えたお蔭で、宮中が華やかで、でも落ち着いた雰囲気になったって言っているわ」
自分が誉められたかのように浮き立つ友人に困ったような笑みを向け、それでも心が温かく満たされていくのを、祥瓊は感じた。
「本当に祥瓊は何でも出来るけど、やっぱり芳の宮中で習ったの?」
「もちろん習い事はたくさんしたわ。けれども、ちょっとした飾り付けとかは―」
突然言葉を止めた祥瓊の顔を、鈴は思わず覗き込んだ。紫紺の瞳が再び閉じられている。
「ごめんなさい。少しすれば仕事に戻るから」
それでもしっかりした口調で言った。
「女官長には後で挨拶に行くわ。やらせて頂きますって」
それを聞くと、鈴は心配げな表情を消し、祥瓊の手をしっかり握った。
「陽子の所で待っているわ。私にも教えてね」
祥瓊が瞳を開き笑うと、鈴も笑みを残し立ち去った。
また一人になると、祥瓊は院子に降り立ち、いくつかの花を摘んだ。昔、まだ父が王になる前は、母と一緒にこうして花を摘んでは、家に飾ったものだった。
― ほら、花だけでなく、形のきれいな草や実の付いた枝も添えると、とても映えるでしょ ―
祥瓊に語りかけながら淀みなく動く母の手からは、美しいものが次々と生まれてくる。
夏官であった父・仲韃は、腐敗の進む宮中にあって一人潔白を貫き通した。賄賂を当然の如く受け取っていた同僚達に比べ、仲韃の家は貧しい―はずだった。しかし当時の祥瓊は、一度として惨めさを感じたことは無かった。
家の中は常に磨き抜かれ、落ち着いた家具や文物に、花が品の良い華やぎを添えていた。衣装も飾りも選び抜かれたもので、僅かな組み合わせの妙は、常に友人達の憧れの的だった。父も祥瓊も、美しいものに囲まれた家に満足し、それらを演出する母・佳花を誇りに思っていた。
もしかすると既にその頃から、佳花の自尊心と美意識の高さは、仲韃の信条から強いられる清廉一辺倒の生活と齟齬を来していたのかもしれない。その軋みが、宮中での生活に歪みを生じさせたのだろうか。
― でも ―
祥瓊は思う。
― お母様が私に教えてくれたことは、今の私を生かしてくれている ―
祥瓊の美しいものを選ぶ目も、それらを作り出す知識と技も、今だ朝の初めの落ち着かない金波宮の雰囲気を、少しずつ豊かなものにしている(本人の自覚は無いが、彼女自身の凛とした態度も寄与している)。思い返せば新道の里家でも、祥瓊の考え方次第で、それらは役に立ったに違いない。
「お母様、お父様」
久し振りに口に乗せた言葉が自分の耳に届いた途端、再び涙がこぼれた。
「貴方達が私に与えてくれたもの ― 罪も、それ以外のもの全ても受けて、私は生きていきます」
やがて院子に歌声が流れ始めた。遥か空の向こうへ捧げられた、美しい歌だった。
― 了 ―
「長閑猫」ネムさまが5周年記念に作品のお持ち帰りを許可してくださいましたので、 いそいそといただいてまいりました。
母と己の罪を自覚し、内省し、更に母の授けてくれたものに感謝する祥瓊……。 涙なしには読めません。 母に捧げられた美しい歌声が聴こえるような気がいたしました。
ネムさん、胸打つ素敵なお話をありがとうございました。
(無断転載厳禁。勝手にお持ち帰らないでくださいね!)
ネムさまの素敵なサイト「長閑猫」は
祭リンク集
からどうぞ
2013.11.06. 速世未生 記
背景画像「吹く風と草花と-PIPOの部屋」さま
「宝重庫」
「玄関」