「十二国で十二題」其の三(慶)
酒 肴
2017/10/04(Wed) 23:26 No.186
秋晴れの農地はさながら黄金の海のようだった。穂を垂れた稲が微風に靡く様は豊かに美しい。景王陽子は感嘆の溜息をついた。
今年の稲は豊作だと聞いて、確かめてみたくなった。そんなことを口にすると、首都近くに碌を持つ左将軍が案内を請け負ってくれた。陽子は景麒とともに桓魋の領地を視察している。己の国が豊かになっていくのを自ら確認することは格別だ。陽子は金の海に眼を細めた。そんなとき。
「いい加減にしやがれ!」
怒号がしたと同時に男の身体が毬のように転がった。男を蹴り飛ばした農夫の息は上がり、怒りのあまりか声まで震えている。
「この米は、腹を満たすためのものだ。てめえの道楽になんかに使われてたまるか!」
蹴られた男は黙って立ち上がる。そして、蹴った農夫に頭を下げてその場から去った。
景王陽子は一部始終を呆然と眺めていた。が、激昂した農夫の道楽という言葉と、随分な対応を受けながら礼を取って立ち去った男の態度がどうにも腑に落ちない。隠形している使令に男の後を追うように申しつけ、陽子は肩で息をしている農夫の許に歩を進めようとした。そんな陽子を、声を潜めた景麒が制止する。
「主上、お待ちください」
「あの人は、道楽で何かをしようとしているようには見えなかった。事情を知りたい」
陽子はきっぱりと言い切る。景麒は溜息をついたが、それ以上諫言することはなかった。陽子は農夫に駆け寄り、一礼して声をかける。
「あの、いったい何があったんですか?」
「どうもこうもねえよ。丹精籠めてやっとできた稲を、好き勝手に使わせたりするもんか」
農夫は吐き捨てるように叫ぶ。首を傾げる陽子を直視し、農夫は忌々しげに続けた。
「やっと米の飯が食えるってえのに、酒なんかにされてたまるかってんだよ」
「お酒……ですか?」
「これだから海客なんて奴は信用置けねえ」
「海客……」
「税を納めても残るようになったなけなしの米だ。誰にもやらねえよ!」
農夫はこれ以上話すことはないとばかりに踵を返す。陽子は黙してその背を見送った。
税を納めても残るようになったなけなしの米。
陽子はその言葉を聞いて、登極してすぐ固継の里家で暮らした頃を思い出す。あのとき、普通に米を食べることはできなかった。小麦を練ったものと蔬菜の屑を煮て食べていた。王宮で陽子が食するものとは全く違う、貧しい食べ物。
民のものを横から掠め取っているようで居たたまれない思いがした。それが王を欲する世界の論理だ、と隣国の王ならば笑うのかもしれない。けれど、陽子はそこまで割り切ることができなかった。
主上、と景麒が気遣うように声をかける。陽子は顔を上げた。今の自分にできることをしたい。小さなことでも、ひとつずつ。大丈夫だ、と己の半身に返し、陽子は笑みを湛える。程なく戻った使令に案内をさせ、海客の男の許へと向かった。
男は廬の一角に住居を定めていた。海客を保護する法が遵守されていることを知り、陽子は唇を緩める。景麒と桓魋を外で待たせ、陽子は家の中の男に声をかけた。訪ねてきた若い陽子を訝しみながらも、男は手を止めて陽子に眼を向ける。
「こんにちは。先程の遣り取りを見ていた者です。少しお話を聞きたいのですが」
男は僅かに眼を瞠り、それから黙したまま頷いた。陽子は話を続ける。
「海客だそうですね。あちらではお酒に関わる仕事をされていたのですか」
「――杜氏をしていた」
男は簡潔に答えた。とうじ、と陽子は首を傾げる。男は少し唇をほころばせた。
「知らないだろうな。酒を造る職人のことだ」
それから男は滑らかに語り出した。蓬莱から流されてきたこと。言葉が通じなくて苦労していたこと。住まいを世話してもらい、慣れた頃にこちらにも稲があることを知り、酒を造ってみたくなったこと。
「――あんたは言葉が通じるんだな」
「……私は、ご領主さまのお手伝いをしているので」
陽子は言葉少なに応えを返す。男はそうかと笑っただけだった。
「――ここは米も水も美味い。きっといい酒ができると思うんだが……」
「酒造りに必要なものを教えてください。ご領主さまはお酒がお好きです。ちょっとお話してみますね」
男は眼を瞠り、僅かに喜色を浮かべた。陽子は慌てて言葉を続ける。
「あまり期待はしないでくださいね」
「ああ。お子さまにそこまで期待はしないさ」
男は朗らかに笑った。陽子はほっと息をつき、己も笑みを浮かべる。気の良い人物だ。そして、信念と情熱を持っている。陽子はこの男の望みを叶えたいと思ったのだった。
「さて、酒好きな領主は何をすればいいんですか?」
男の家を辞した後、桓魋が楽しげに声をかけてきた。察しのよい臣に、景王陽子は笑みを向ける。そして、事細かに説明してみせた。左将軍は恭しく拱手して、承りました、と笑う。景麒は軽く溜息をついたが、意見することはなかった。
少し日を置いてから、陽子は再び海客の男を訪ねた。領主の許可をもらえた、と告げると、男は眼を輝かせる。必要なものは取り敢えず用意したが、足りないものがあれば知らせてほしい、と言うと、男は顔を曇らせた。
「そんなにしてもらっても、金は払えないぞ」
「出世払いで結構だそうですよ。まず、出来た酒を一番に飲ませてほしい、と仰せでした」
陽子の言葉を聞いた男の瞳が輝きを増していく。間近でそれを見つめた陽子は密かに唇をほころばせた。
それから時が経ち、海客の男は出来上がった一番酒を恭しく領主に献上したのだった。
「こんな美味い酒は飲んだことがないです」
献上された新酒を飲むなり、桓魋は感嘆の声を上げた。傍で見守っていた陽子は漸く安堵の息をつく。男の努力がとうとう実を結んだのだ。己の身分を隠して男を庇護し続けたこの幾年を思い返し、陽子は唇を緩めた。
「ありがとう、桓魋」
「とんでもない。御礼を申し上げるのは俺の方です、主上。予想以上の出来だ」
桓魋はそう言って相好を崩す。
「きっとこの酒は将来慶の名物となりますよ」
桓魋の予言はいつか実現するだろう。陽子は確信とともに笑顔で頷いた。そして、この喜びを男に伝えようと思いつく。早々に仕事を片付けて、陽子は海客の男の仕事場へと向かった。
「こんにちは」
「おう」
陽子は控えめに声をかけた。ぶっきらぼうな応えを返す海客の男は手を止めなかった。しかし、陽子を認めて僅かに口角を上げる。陽子は安堵し、邪魔にならないところを探して腰を下ろす。そして、弾んだ声で男に話しかけた。
「ご領主さまが、献上品にびっくりしていたよ。こんな美味い酒は飲んだことがないって」
「そうか」
「――嬉しくないの?」
男の応えは端的だった。陽子は不安げに首を傾げ、男に問う。男は大らかに笑った。
「美味くないものを差し上げるわけがないだろう。あれは美味いんだ。お前もそう思っただろう?」
「私は……」
飲んでいない、と言えずに陽子は口籠る。男は初めて手を止めた。そのまままじまじと陽子を見つめる。そうして弾けるように笑い出した。
「ああ、お前のようなお子さまにあの美味さが分かるわけがないな」
ちょっと待ってろ、と言い置いて男は立ち去る。少しして、どこか懐かしい独特の甘い匂いが漂ってきた。見ると、男は湯気の立つ湯呑みを持っている。
「飲んでみろ」
「もしかして、甘酒?」
「そうだ。よく煮てあるから、お子さまでも酔わないはずだぞ」
男はにやりと笑って陽子に湯呑みを差し出す。陽子は頬を膨らませてそれを受け取り、無言で口に含んだ。しかし、精一杯の抵抗もそこまでだった。
「美味しい!」
濃厚で風味豊かな甘酒の味わいに、陽子は感嘆せずにはいられなかった。男はゆったりと腕を組み、尊大に首肯する。
「当然だ。美味い酒は粕まで美味いもんだ」
次からはお子さまのために酒粕もおまけに付けてやる、と続けて男は笑う。
「お前が酒の味が分かるようになる頃には、もっと美味い酒になっているからな」
男は子供のように無邪気な顔をしてそう言う。ほんとうは男よりも年上の陽子は、微笑んで頷くことしかできなかった。
海客の男は、それからも美味しい酒を領主に献上し続けた。左将軍はその酒を気前よく金波宮に持ちこみ、酒宴を提供した。酒を飲めない者は共に献上される酒粕にて作られた甘酒に舌鼓を打つ。
時が過ぎ、その酒は慶の銘酒とされるようになった。律儀に献上される酒を王の執務室へと届けに来た桓魋は、感慨深げに呟く。
「――主上御自らの庇護を賜ったと知れば、あいつはさぞかし驚くでしょうね」
今や陽子が歳を取らないのは仙籍に入っているからだと承知しているが、もちろん男は驚くだろう。そして、態度を変えてしまうだろう。だから、陽子は桓魋にいつもの言葉をかけるのだ。
「内緒だよ」
楽しげに笑う国主に、桓魋は苦笑を浮かべて拱手を返すのだった。
2017.10.04.
ご感想御礼 未生(管理人)
2017/10/10(Tue) 23:52 No.317
皆さま、今回最も気合を入れた作品に温かなご感想をありがとうございました〜。
ミツガラスさん>
わ、こういうお話お好みですか、嬉しゅうございます〜。
慶は米が主食というイメージが私の中にはございまして、それなら日本酒を造るしかない!
との妄想でございました。
元は甘酒を書くためのお話でしたが、長くなりすぎるので割愛した部分でございます。
妄想を刺激するご感想をありがとうございました!
ネムさん>
はい、同じ黄金でも雁の勇壮な麦と慶の優美な稲ではかなり印象が違うと思います。
農夫には農夫の、海客に海客の、それぞれ言い分があり、
どちらも受け止める主上でいてほしいとの妄想も入っております。
美味しい甘酒をネムさんにもお裾分けいたします(笑)。
由都里さん>
陽子主上と桓魋の関係をお楽しみくださりありがとうございます。
この頃の陽子主上は景麒を黙らせることができ、
出来ることを確実に実行できる力を持っているとの妄想でございます。
まあ、海客と聞いて余計に構ってしまったという裏事情がございますがね……(笑)。
甘酒飲んで更に酔ってくださいませ〜。
minaさま>
そうですね、慶は酒造りによい気候であってほしいと思っております。
ご賛同ありがとうざいます〜。
酒粕の活用法! そんなふうに慶全土に広がっていくとよいですね〜。
うふふ、確かに同じ中緯度の範は葡萄酒ですね!
ワイングラスとともに特産品になりそう……。
素敵なご感想をありがとうございました。
饒筆さん>
エア晩酌が楽しすぎます(笑)。私もご相伴に与りとうございます〜。
はい、そのとおり。桓魋が一番役得でございましょう(笑)。
文茶さん>
はい、ひとつずつできることをしているうちに、
大きな花を咲かせてしまう王さまになっていってほしゅうございますね〜。
もうこうなったら、みんなでこのお酒を賞味する会を設けましょうか(笑)。
篝さん>
つまみは何がよいでしょうね〜。案外海産物がイケるかもです!
ねえ、小さなことを積み重ねて大きくしていく陽子主上が私も愛おしいです。
甘酒しか飲めないのも可愛らしい(笑)。
こちらこそご感想をありがとうございました〜。