「十二国で十二題」其の四(舜)
渡り鳥
2017/10/09(Mon) 23:55 No.282
遠くで呼び声がする。切れ切れに聞こえる己の名などどこ吹く風、少年は独り木の上で果実を齧っていた。空は青く、高い声で鳥が鳴く。長閑な昼下がり、仕事で消費するなど勿体ない。見つかれば叱られるだろう。けれど、見つかるまい。少年は鼻を鳴らした。
空を舞う鳥を見上げる。翼があれば自由に行けるのに。いつもの想いに溜息をつく。あいにく人間に産まれてしまった。地に縛られ、しがらみの中で暮らしていくしかない。正丁になったとしても、よそに土地を与えられ、ここを離れて別の土地に行くだけ。それよりも、少年は自由に飛んでみたかった。そう、あの鳥のように。そんなとき。
少年は空を横切る大きな影を見つけた。鳥ではない。もっと大きなそれは、騎獣に跨る人間だ。少年は眼を瞠り、影を追う。騎獣は高度を下げていた。そう遠くない場所に降り立とうとしているようだ。食べかけの果実が手から落ちる。少年は木から降り、一目散に駆け出した。
天駆ける騎獣を操る者などそういない。この機会を逃すわけにはいかないだろう。わくわくが胸を満たす。少年は歓声を上げて走り寄った。
騎獣の上で振り返る人物は訝しげな眼で少年を見つめる。が、長い尾を振り、唸り声で威嚇する獣の頭を撫でて宥めた。毛艶のいい虎のような騎獣を持つに相応しい身なりの良い若者だ。少年は足を止め、弾んだ声で話しかけた。
「空を飛んでいたよね! どこから来たの」
聞いた若者は軽く吹き出す。笑みに眼を細めた若者は柔和で、しかも楽しげだった。
「――確かに飛んでいたけどね」
若者は気負いなくそう返し、ゆっくりと騎獣から降りた。少年は大きく眼を瞠る。若者にとって「空を飛ぶこと」は普通のことなのだと感じたのだ。
「鳥みたいだね! 羽はないけど!」
嬉々として素直な感想を告げた少年に、若者は不思議そうな貌を向けて首を傾げた。少年は頬を紅潮させて叫ぶ。
「だって、飛ぶのが当たり前なんでしょ?」
今度は若者が大きく眼を瞠った。黙してまじまじと少年を見つめた若者は、突然弾けるように笑い出す。少年は呆気にとられて若者を見つめるばかりだった。
「面白いことを言うねえ」
散々笑った後、若者は眦の涙を拭いながらそう言った。少年は憮然と頬を膨らませる。
「面白いことを言ったつもりはないんだけど」
若者は声なく笑い、おもむろに歩き出す。少年はその後ろをついていった。大木の木陰で足を止め、若者は腰を降ろす。そして、騎獣に水と餌を与え、己も水筒に口をつけた。
「ここにいていいのかい」
若者は笑顔で問うてくる。少年は思わず顔を蹙めた。いいわけがない。皆が働いている時間なのだから。
「よくはなさそうだねえ」
若者はそう言ってまた笑う。少年は口を尖らせた。大人は皆そう言うのだ。
「だって……ずっとおんなじことの繰り返しなんだよ。今も、大きくなっても、ずっと」
そんな不満が口をついて出た。今まで、誰にも言ったことがないというのに。若者は不思議そうに首を傾げた。少年は大きく息を吸う。一度口から溢れた言葉は、もう止められなかった。
「畑で働かされて、休みの時には庠学に行かされて、正丁になったら土地を貰って、また同じことをするんだ。うんざりだよ」
若者は黙って聞いていた。大人は皆、すぐ少年に説教をするのに。内心で驚きながらも、聞き手を得た少年は語りを続けた。
「空を飛べたらいいのに。そうしたら、他のところに行けるのに」
高い声で鳥が鳴く。少年は空を見上げ、輪を描きながら飛ぶ鳥を眼で追った。小さな笑い声が、少年を現実に戻す。若者が、少年に笑みを向けていた。
「君はどこへ行きたいの」
「どこでもいいんだ、ここでないところなら」
素直に思いを伝えると、若者はふうんと言って黙りこんだ。やがて。
「空を、飛んでみるかい」
若者は柔和な笑みを浮かべてそう言った。少年は眼を瞠る。それから、大きく頷いた。
「――わあ!」
初めて見る上からの世界に、少年は歓声を上げた。少年の身体を後ろから支える若者は面白そうに笑う。見慣れた畑が別のものに見える。いつもは見上げる木々をも見下ろす高みに自分はいるのだ。鳥のように。後ろから感慨深げな声がする。
「綺麗な国だね」
「――舜の人じゃないの?」
うん、と簡潔に答え、若者は小さく息をつく。
「海の向こう、巧ではね、妖魔が出るんだ」
「――妖魔」
「うん。王が斃れて国が荒れている。だから、逃げ出す人々が、大勢いた」
若者は淡々と海の向こうで見たことを告げる。そして、綺麗な国だね、と再び呟いた。少年はおもむろに振り返る。若者は、哀しげな貌をして下の景色を見下ろしていた。
君は恵まれているのだ、と責められたのなら、きっとすぐにも反論しただろう。先が見えすぎる生を厭って何が悪いのだ。この息苦しさを、どうにか耐えているのだ、と。しかし。
何も言えなかった。見てきたことを淡々と語る若者は、傷ついているように見えた。だから、ただ、綺麗だ、と若者が褒めてくれたいつもの廬を、少年は唇を噛んで見つめ続けた。それしかできなかった。
「まだ、空を飛びたいと思うかい」
やがて、若者はぽつりとそう問うた。少年は小さく首を横に振る。空を飛んで目にするものは、輝かしいことだけではない、と理解した。若者はくすりと笑う。それから、そうか、と呟いた。
「ねえ、どうして空を飛ばせてくれたの」
元の木陰に腰を落ち着けた若者に、少年は訊ねてみた。若者は柔和に笑う。
「そうだねえ、懐かしかったから、かな」
「なあに、それ」
少年は口を尖らせた。若者は大きく笑う。そして、少年の頭にぽんと大きな手を置いた。
「君に笑ってほしかったから、かもね」
つまらなさそうにしていたから、と言って若者はまた笑う。少年は頬を膨らませた。膨れた頬を突きながら、若者はしみじみと告げる。
「――君の笑顔が見たくて頑張っている者はいるんだよ」
忘れないで欲しい、と続けて、若者は深い笑みを刷く。少年は首を傾げた。よく分からない。それでも、少年は思ったことを口に出した。
「笑ってほしい人がいるの?」
「――沢山いるよ」
たくさん、と少年は呟いた。そう、沢山、と若者は微笑む。その眼は、まるで閭胥のように深い色を浮かべていた。少年は若者に笑顔を返す。
「うん、分かった。つまらなくなったら、今日見た景色を思い出すよ。そしたらきっと笑顔になれるから」
ありがとう、と続けると、若者は僅かに眼を瞠り、そして嬉しげに笑った。少年はそんな若者に笑みを向ける。それから自分のいるべき場所へと駆け戻ったのだった。
2017.10.09.
ご感想御礼 未生(管理人)
2017/10/11(Wed) 00:56 No.319
実はかの方で書こうか太子にしようか1ヶ月半も迷走してしまった小品に
温かなご感想をありがとうございました〜。
文茶さん>
はい、風来坊の太子でございます。永い人生、色々あったことでございましょう。
そしてそんな渡り鳥と一瞬触れあった少年は、
きっと忘れずに生きていくのだと思いたいです。
じーんとしていただけて嬉しゅうございます。ありがとうございました。
ネムさん>
はい、「帰山」での利広の言葉が印象に残っておりました。
北の人間の私が南国を描くのはかなり無理がございましたが、
南の温かさを持つ王が治める国であってほしいとの妄想も入っております。
平凡であることの大切さを、
言葉ではなく伝えた渡り鳥は少年の心にずっと生き続けることでございましょう。
ラストスパートに労いをありがとうございました〜。
篝さん>
平和って飽きるんですよね。でも、世界がいつも平和だとは限らない……。
こんな「巡り合わせ」を積み重ねている渡り鳥なんだと思います。
こちらこそ深いご感想をありがとうございました。
瑠璃さん>
はい、こんな小さな出会いこそ、
どこぞの古狸との邂逅よりも心に残っていたら面白いなとは思います(笑)。
こちらこそ、労いのお言葉をありがとうございました〜。
饒筆さん>
そうです、そういう「お年頃」!
なんだか反抗期の頃の自分を思い起こしたのは内緒でございます(笑)。
意外に、あの頃こんな大人に出会いたかった、という願望なのかもしれませんね〜。
納得のご感想をありがとうございました〜。