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音のない夜のものがたり 其の一

天から

 ぽつり。微かな音を立て、天から滴が落ちてきた。陰鬱な灰色の空を見上げ、陽子は宙に手を伸ばす。その翳した掌の上にも、またひとつ。
「――雨だ」
「急ぐぞ」
 簡潔な言葉とともに、隣を歩く尚隆が足を速める。ぽつりぽつりと降り始めた雨粒は、見る間に二人の足許を黒く染め上げていった。

 冬枯れた北の大地に、音を立てて冷たい雨が降る。身を切るような雨が、容赦なく叩きつけてくる。目指す街はあと少し。急ぎ足で歩きつつも、北の大国の王は穏やかな声音でそう言った。陽子は伴侶を見上げ、小さく頷く。伴侶はそんな陽子の手を取り、励ますように笑みを見せた。
「晩秋の雨は冷たいな」
「この雨はもう冬のものだよ」
 こんなに冷たいんだもの、と陽子は伴侶に言葉を返す。冷たい雨も、色褪せた草も、すっかり冬のものだ。秋だなんて思えない。しかし、北国を統べる王はにやりと笑んで、思いがけないことを言った。

「それはお前の常識だ。ここでは、冬に雨が降ることはない」

 聞いて陽子は大きく目を見張った。歩みを緩め、天を振り仰ぐ。灰色の空から降り注ぐ大粒の雨が、陽子の顔を激しく打った。ここでは、この痛いほどの冷たさも秋のものなのか。そう思うと感慨深かった。と同時に、ならば冬はどうなのだろう、との疑問も沸々と湧いてくる。やがて。
 降り続ける透きとおった滴に仄かな色がつく。やおら目の前が白く染まり始めた。そうして雨粒は舞い踊る牡丹雪へ次々と姿を変えていく。自ら答えを見つけた陽子は思わず歓声を上げた。

尚隆(なおたか)、今、冬が来たよ!」

「とうとう追いつかれたな」
 街はすぐそこだったのに、と伴侶は空を見上げて苦笑した。陽子はまたも目を丸くする。北国の住人にとってはお見通しの展開だったのか。陽子は足を止めて伴侶をじっと見つめた。
「――逃げてたんだ」
「こら、止まるな。門が閉じてしまう」
 伴侶は苦笑気味に叱咤した。繋いだ手を強く引かれ、陽子は再び歩き出す。降りしきる雪が、夕暮れを明るく照らしていた。目指す街の門を潜り、一息ついた陽子はふと気づく。雨音が絶えていた。

「――音が呑まれてる」

 陽子は再び足を止め、天から静かに舞い降りる冬の使者に手を伸ばす。陰鬱だった灰色の空さえ、今や白く染め変えられていた。
「きっと積もるぞ」
 踊り狂う冷たくも美しい花びらを見つめ、伴侶は楽しげに笑んだ。陽子は期待に満ちた目を向け、大きく頷く。夕闇に呑まれかけていた街が、淡く白く浮かび上がっていた。

2013.12.20.
 今年北の国は存外に雪が少なく暖かな冬を迎えております。 少し淋しくなって昨年撃沈した冬御題を引っ張り出してまいりました。 北国の冬の情景をお楽しみいただけると嬉しゅうございます。

2013.12.21.  速世未生 記
背景画像「素材屋 flower&clover」さま
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