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御題其の五十六

氾麟の涙

「なによ、尚隆の莫迦……!」
 淹久閣の自室に戻った氾麟は榻に突っ伏し、小さな拳を何度も叩きつけた。延王尚隆の言葉を思い出すだけで、怒りやら悲しみやらが押し寄せてくるのだ。
(では、より近いと感じるほうへ向かっていけばいいだけのことだろうが)
 尚隆はさも不思議そうにそう言った。氾麟は悔し涙にくれた。尚隆は、傲濫がどれほど禍々しい気配を放っているか知らないから、軽く言えるのだ。氾麟は、一生懸命その威圧に耐えて泰麒を捜しているというのに。
「──嬌娘」
「主上……」
 程なく現れた主にしがみつき、氾麟は声を上げて泣いた。氾王は氾麟の背を優しく撫でて慰めた。
「猿王には、私からきつく言っておいたから、安心おし」
「──尚隆なんて、蓬莱に行って、傲濫にのされてしまえばいいんだわ」
 しゃくりあげながらも忌々しげに呟く氾麟に、氾王はくすりと笑う。
「あの男は、怖いという感情が欠落しているからねえ。だが、梨雪、何故それを、猿王に言ってやらなかったのだえ?」
「──だって、六太が、尚隆も陽子も、本当は自分で蓬莱に出向きたいはずだって言うんですもの。二人とも、胎果だから、って……」
 麒麟と違って二形を持たぬ王は、呉剛環蛇を潜ることができない。王が潜ることができる呉剛の門を開くと、蝕が起こる。大きな蝕を起こすと分かっていて、虚海を渡る王などいるまい。
「嬌娘は、本当に良い子だねえ」
 氾王は柔らかな笑みを氾麟に向けた。主の労いで、こんなにも心が癒される。

 ──王と分かたれて、泰麒はどんな想いを抱いているのだろう。

 氾麟は胸に痛みを覚えた。
「──ああ、でも、どうやら猿王にも怖いものがありそうだからねえ」
「え……? あの尚隆に、怖いものがあると仰るの?」
「──怖いものがある、というより、恐れていることがある、ということなのだろうがねえ」
 思わず頭を擡げた氾麟に、氾王は謎めいた微笑を見せた。氾麟は小首を傾げる。氾王は氾麟の頭を撫でながら、楽しげに笑うのみだった。

2006.12.08.
 尚隆と喧嘩して蘭雪堂を飛び出した後の氾麟でございます。 楽しげな氾さまは私的ツボ! でございます。
 「黄昏」第22回、もう少しなのですが、そのもう少しが上手く纏まりません……。 なので、コーヒー・ブレイクついでに息抜きがてら書き流しました。  こっちはいいから早くワードに戻れ! と天のお声が聞こえてきそう……。

2006.12.08.  速世未生 記
(御題其の五十六)
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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