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御題其の九十五

ただひとりの主

 主が小さく溜息をつく。そして、筆を動かす速度が落ちていく。愁いを帯びたその美しい横顔を、浩瀚は黙して見つめた。
 小さく首を振り、主は筆を持ち直す。こんなときに浩瀚が席を外せば、きっと主はまた横文字を書き流すのだろう。
「──主上」
 浩瀚は穏やかに声をかけた。主は少し肩を揺らし、はっとしたように浩瀚を見つめた。
「ご休憩なさっては如何ですか」
 主はつと目を逸らした。それから筆を再び動かし、硬い声で応えを返す。
「大丈夫だ。心配するな」
「主上を心配いたしますのも、私の大切な役目のひとつなのですよ」

 主の憂いを己が晴らしたい。

 そんな想いを隠し、浩瀚は主に笑みを送る。主は苦笑を浮かべ、肩の力を抜いた。
「──浩瀚は、いつもお見通しだな。というより、私がそれだけ未熟者っていうことなんだろうけど」
「そんなことはございませんよ」
 ひとつ伸びをし、主は遠くを見つめる。浩瀚は主の次の言葉を待った。
「──私は、ときどき、お前のほうが王に相応しいんじゃないかと思うよ」
「主上……」
 口を開きかけた浩瀚を、主は身振りで止めた。それから、微苦笑を浮かべて続けた。
「延王も、最初から、麦州侯と連絡を取れ、と助言してくださっていたし……」
「恐れながら、主上」
 浩瀚は主の言葉を遮る。主は己の伴侶が五百年玉座に君臨する稀代の名君であることを決して忘れない。しかし浩瀚は、その延王尚隆が景王である主を、金波宮の一部の臣よりもずっと認めていることを知っている。
「主上は私のただひとりの主でございますよ。そして、かの延王を論破した名君でございます」
 決然とした浩瀚の言葉に、麒麟に選ばれたからこそ王である、ということを潔しとしない胎果の女王は、戸惑いつつも笑みを浮かべた。
「浩瀚……」
「そしてそれは、かの方もよくご存じでございましょう」

 延王尚隆は、伴侶だからといって隣国の女王を甘やかす人物ではない。

 主は苦笑気味に答えた

「お前は、いつも私に甘いな」

「主上がご自分をお分かりでないだけでございますよ」
「──そういうことにしておこう」
 主は軽く嘆息し、鮮やかな笑みを見せた。忌憚なく本音を述べた浩瀚は、ただひとりの主に恭しく頭を下げた。

2008.08.26.
 初期の陽子主上と浩瀚でございます。「黄昏」後間もなく、くらいの頃でしょうか。
 実は、浩瀚の科白が胸から消えなくて書いた小品なのですが、浩瀚は声に出してそれを 言ってはくださいませんでした……(溜息)。まあ、言いたくないなら、いいですよ、はい。

2008.08.26. 速世未生 記
(御題其の九十五)
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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