「目次」
「玄関」
御題其の百七十
陽の光
暖かな陽光の気配が近づいてくる。景麒は手を止め、微かに唇を緩めた。筆を置いて待ち受ける。やがて、景麒、と衝立の陰から声がかかった。景麒は立ち上がり、無言で頭を下げる。顔を覗かせた主は、苦笑を隠すことなかった。
「いるなら返事くらいしろ」
「私がここにいることはお分かりでしょうから」
「おいおい、私は麒麟じゃないんだぞ」
主は苦笑をしつつ、景麒の肩を小突く。案件を抱えている様子ではない。景麒は軽く首を傾げ、主に訪問のわけを訊ねた。
「如何なさいましたか?」
「景麒、雁に行くことを許してくれてありがとう」
主は鮮やかな笑みを浮かべてそう告げる。景麒は溜息を禁じえなかった。王は国に君臨する者で、臣は王に従う者。景王である主が命じれば、逆らえる者など誰もいないのだ。
「度々申し上げておりますが──」
「王は臣に気安く礼を言うべきではない、とお前はいつも言うけどね」
主は景麒の諫言を遮り、一本立てた人差し指を軽く振る。そのきっぱりとした貌に、景麒はひととき呑まれた。
「私的なことを臣に命じたくはない。だって、それは単なる我儘だからね」
主は生真面目にそう続ける。輝きを取り戻した翳りない翠玉の瞳が眩しく思え、景麒は黙したまま主の言葉を聞いた。
「私は、私の我儘を許してくれたお前に、礼を言いたいだけなんだ」
嬉しかったから、と言い添えて、主は頬を染めた。主は景麒が主の伴侶を疎んじていることを充分承知している。だからこそ、帰国したばかりの雁から届いてしまった鸞が運んだ要件ををすぐに告げなかった。その気遣いを、景麒はよく分かっている。
行きたい。けれど……。
そんな逡巡を知っていながら、景麒はただ主の出方を窺った。帰国したばかりだ、と苦言を呈しもしたのだ。だから──。
「──礼など……仰る必要はございません」
「相変わらず頑固だな。まあ、いい」
気が済んだ、と主は笑う。そのまま踵を返す主に思わず、主上、と声をかけた。足を止めて振り返る主に、景麒は続ける言葉を探す。
「──お気をつけて」
「うん、ありがとう」
鮮やかな笑顔と温かな謝辞を残し、主は去る。それでも尚、陽光の王気は景麒を優しく包んでいるのだった。
2011.11.20.
長編「滄海」余話より短編「同想」後の慶国主従をお送りいたしました。 小品なのですが、景麒の口が重く、なかなか書き上げることができませんでした。 いやはや、語り終えてくれてよかったです。
2011.11.20. 速世未生 記
(御題其の百七十)
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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