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御題其の百八十六
甘え
大きな背を見つめていた。決して追いつくことができない背を。伴侶は訝しげに振り返る。そうして動きを止めた。
微動だにしない伴侶を見つめるだけで、目の前が霞んだ。何も言わず見つめ返すその瞳がぼやけて見えなくなる。
泣きたくない。
心からそう思った。それなのに、瞬きを繰り返すだけで瞳が己を裏切ってしまう。陽子は堪らず目の前の広い胸に身を投げた。
泣き顔を見られたくない。
ただそれだけを思った。嗚咽を呑みこむと肩が震えた。大きな手がそっと背を撫でる。何も言わず、何も訊かず。
涙を見せたくないだけならば、背を向けて駆け出せばよい。こうして胸の中に飛びこんでしまうのは、ただの甘えだ。分かっている。
分かっているけれど。分かっているから。
温かな身体に包まれて、存分に甘やかされて、陽子は目を閉じて力を抜く。くすり、と小さな笑い声が聞こえた。身体がふわりと浮き上がる。伴侶はそのまま手近な榻に腰を下ろし、陽子を膝に抱えた。緩やかに抱きしめる腕が、優しく囁きかけているように思えた。
ありがとう。
口に出せない言葉を胸に秘め、陽子は身を委ねる。温かな身体は次第に陽子の意識を奪っていく。いつまで経っても追いつけない悔しさも、心地よい温もりに宥められていく。この腕に包まれる小さな身体でよかった。そう思いつつ、陽子は意識を手放した。
2012.12.12.
御題其の百八十五「静やかな夜」の陽子視点でございます。 「スノーフレーク」読後一気書きしたのはこちらの方でございました。 せっかくの12月12日、もうちょっと違うものを出したかったのですが……(苦笑)。
お茶濁しの小品で失礼いたしました。
2012.12.12. 速世未生 記
(御題其の百八十六)
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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