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御題其の百九十六

堯天の攻防

「あ、あの……!」
 不意に呼び止める声がした。堯天の街を伴侶とともに歩いていた尚隆は、訝しげに振り返る。そこには、顔を朱に染めた娘が、陽子だけを見つめて緊張気味に立っていた。

 見覚えのある顔だ。

 記憶を辿り、尚隆は思い出す。いつか伴侶と堯天を漫ろ歩いていた時に行き会った娘だ。確か、そのときも娘は上気した顔で陽子だけを見つめていた。尚隆は唇を緩め、静観を決めこんだ。

「何か?」
「――先日はありがとうございました!」
 陽子に問われ、娘は深々と頭を下げる。伴侶は首を傾げて尚隆を見やった。尚隆はただ笑みだけを返す。伴侶はしばし黙し、納得したように声を上げた。
「あの時の、貧血を起こした方だね」
「――覚えていてくださったのですか」
 ありがとうございます、と娘は嬉しげにまた頭を下げる。伴侶は軽く首を横に振り、鮮やかな笑みを無邪気に向けた。その後の展開が目に見えるようだ。尚隆は密かに苦笑した。
「いや、結局何もできなかったから。気にしないで」
「い、いえ……」
 娘はますます頬を染めて口籠る。伴侶は不思議そうに首を傾げ、娘を覗きこんだ。尚隆の予想に違わず、娘は息を呑んで目を見張る。これではいつまで経っても話が進まないだろう。尚隆は静観を止めて口を開いた。
「――これの名は、宝珠。宝の珠と書く。因みに俺は風の漢で風漢という」
 伴侶に見蕩れて絶句していた娘は、それを聞いて顔を蹙めた。初めて気づいたように尚隆を睨めつけ、尖った声を上げる。

「ありがとうございます。でも、あなたには訊いていません」

 陽子を女と知ってもなお、尚隆に敵意を向けるのか。なんとまあ面白い娘なのだろう。尚隆は遠慮なく笑い声を立てた。伴侶といえば、娘と尚隆を交互に見つめ、狼狽えている。尚隆は険のある眼で見上げる娘に笑い含みの応えを返した。
「――これは鈍いから、はっきりと告げた方が良いと思うぞ」
「余計なお世話です」
 鋭く言い放ち、娘は陽子に向き直る。そしてまた、頬を染めて丁寧に頭を下げた。
「宝珠さま、ほんとうにありがとうございました。私はそこの茶屋で働いておりますので、是非お寄りくださいね。おまけしますから!」
 娘は早口でまくしたてると、これが限界、とばかりに身を翻した。伴侶は眼を白黒させて立ち尽くす。尚隆は小さくなる娘の背と呆然とした伴侶の顔を見比べながら事態を見守った。やがて。
「ああ、名前も言わずに行っちゃった……」
 娘が消えた方を眺めたまま、伴侶は深々と溜息をつく。尚隆は吹き出すのを堪えながら軽口を叩いた。
「そのうち機会があるだろう」
 積極的な娘だからな、と続けると可笑しさが込み上げる。肩を震わせて笑う尚隆を見上げ、伴侶はまたも不思議そうに首を捻った。

 尚隆の予言どおり、可愛らしい恋敵との攻防は、その後も時々繰り広げられた。伴侶の困惑は、その度に尚隆を楽しませたのだった。

2014.01.24.
 小品「ある乙女の密かな夢」の続編を尚隆視点で書いてみました。 最近「祝六周年尚陽祭」の整備をしておりまして、 旧作を読み直している内にムラっとしてしまったわけでございます(笑)。
 モブの人々には原則名前をつけません。描写も控えるようにしております。 けれど、この子には名前を付けたい気分でございます。 どなたか考えてくださいませんかねぇ……(他力本願/笑)。

2014.01.24. 速世未生 記
(御題其の百九十六)
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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