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御題其の二百五

想巡季

 眼を閉じると懐かしい声が聞こえる。低く、優しく、切ない声が。

(俺の我儘を、全て許す必要などなかったのだぞ)

 愛の言葉ばかり陽子に告げた後、伴侶はそう言って微笑んだ。そんなことを言われても分からない、陽子はそう答えて涙を零した。拗ねた貌も可愛いな、と笑って伴侶は陽子を優しく抱きしめた。あれは、最後の逢瀬のこと。

 あのひとの全てを受け止めたかった。どんな我儘もきいてあげたかった。いつも抱きしめていたかった。心からそう思っていた。けれど。
 あのひとは、そんなことを求めていなかった。それに気づいたときは、打ちのめされる思いがした。あのひとの我儘を嗜めていたら、もっと一緒にいられたのだろうか。

 桜は何も答えない。それでも問わずにはいられない。

 舞い散る花びらに手を差し伸べる。掌に落ちる花弁はごく僅か、ほとんどがこの手を擦り抜けてしまう。全てを受け止めることなどできはしない。そして、掌の上のひとひらさえも、すぐに風が攫っていく。溜息をつきかけた、そのとき。
 微かな音がした。そっと後ろに立つ気配。声をかけず傍にいてくれる、優しい友。陽子は唇を緩めた。

 桜にばかり話しかけていた。そんな陽子の背を見守る数多の目があることに気づかずにいた。視線に気づいてからは、どうしてよいか分からずに戸惑った。

(ほしいものには自ら手を伸ばすんだよ、こうやって)

 そう教えてくれた風来坊の旅人は、陽子をきつく抱きしめた。そのときやっと、どうしたいのか、どうされたいのか、分かったのだ。

「こうやって手を伸ばしても、ほとんどの花びらが擦り抜けてしまう」
 陽子は桜を見つめたまま囁いた。
「――全てを受け止められればいいのに」
 無理だ、と分かりながらも願ってしまう。この手がもっと大きければ、と。それは今も昔も変わらない。そして、そんな繰り言を聞いてくれるひとが傍にいることも、また。
 陽子は黙って聞いてくれる友に目を向けた。鈴は拳を握りしめ、真剣な面持ちで陽子を見つめている。自然に笑みが浮かんだ。
「――でもね、手を差し伸べることを止めたりはできないんだ」
 友が力を貸してくれる。そう、答えは己の中にあるのだ。陽子は物言わぬ桜に眼を戻す。樹はさわさわと音を立て、花びらを散らしていた。
「手を出さなければ、何も掴めはしない」
 陽子は右手を差し伸べる。ひらりと舞う花弁がひとひら掌に落ちた。
「――後悔は、したくない」
 全てを受け止めたかったのだ。例え、この手が如何に小さくても。掴めないものの方が多いとしても、手を伸ばさずにはいられない。どんなに胸が痛もうとも、陽子がそうしたいのだ。
 左手が、温かい。陽子よりも小さな鈴の手が、ぎゅっと握ってくれる。陽子はその手を握り返した。ありがとう。口に出せない言葉を乗せて、微笑を送る。鈴はゆっくりと唇をほころばせた。

(お前は独りではない)

 胸に響く、懐かしい、明朗な声。翳りない笑みを見つめ返し、陽子は小さく頷く。そして、それを伝えてくれた春風の笑みをも思い浮かべ、そっと感謝を告げた。

2015.06.18.
 いつも拍手をありがとうございます。励みになります〜。

 久々の御題でございます。桜祭に出した小品「桜花雨」の陽子視点になります。
 6月なのにまだ桜(苦笑)。祭ではないので桜の描写は少なめでございます。

 結構長い間書けずにおりました。 空きっ腹に酒を流し込むように読書をしていた時期もございました。 勿体ない読み方かな〜と思いつつ、無駄にはなっていないようで。
 祭終盤の本日の一作、しんどかったけれど楽しゅうございました。 あんなことをいつもやると体を壊しますけれど、 緩いノルマをかけるのもひとつの手かと思ってみたり。

 というわけで、久々の金曜更新でございます。よろしければご覧くださいませ〜。

2015.06.19.  速世未生 記
(御題其の二百五)
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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