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御題其の二百七

七夕の日

 最後の書簡に目を通した。丁寧に御璽を捺し、景王陽子は唇を緩める。終えた仕事をきちんと片付けた後、小卓の茶杯を取り上げた。冷めた茶を飲み干して、陽子は勢いよく立ち上げる。そして、笑みを浮かべて美しい料紙を手に取った。

 陽子の願いが叶いますように。

 懐かしい手蹟で書かれた短冊は、堯天に降りた養い子から届けられたもの。元気です、庭院の笹に飾ってください。そんな短い書信に記された言葉ととともに、陽子の心をほっこりと温めた。

 庭院には、いつものように沢山の短冊を下げた笹が揺れていた。それなのに、短冊を皆に配り、笹に飾りつけてくれていた者が今年はいない。楽しいはずの七夕が、切ない喪失感を齎した。けれど。
 蘭桂は、いつもの願い事を認めた短冊を陽子に届けてくれた。己の手でその短冊を笹に飾り、陽子はひとり微笑する。

 今日は七夕だ。これから宴の用意をするために鈴や祥瓊も現れるだろう。ひと足先に仕事を終わらせて、陽子は色とりどりの笹飾りを眺める。皆が短冊に託した様々な願い事。陽子の願いが叶いますように、と書かれたものが何枚もある。公人の景王としてではなく、私人の陽子としての願いが叶うように、と。
 ほんの小童の頃からそう願ってくれた、心優しい養い子。今年も忘れずに短冊を届けてくれた。陽子は共に見上げた桜の若木を仰ぎ見る。この樹のように、あっという間に陽子の背を追い越した蘭桂。その内に、十六で時を止めた陽子の見かけの歳をも追い抜いていくのだろう。そう思うと少し切なかった。それでも。

 ずっと私の弟だよ。

 陽子はそっと呟く。胸に蘭桂の笑みが浮かんで消えた。そんなとき。
 後ろから近づく人の気配がする。陽子は笑みを湛えて振り向いた。
「いらっしゃいませ、延王。今年はお早いお着きですね。まだ宴の準備も始まっていませんよ」
「――元気そうだな」
 今年も律儀に七夕の宴への招待を受けた隣国の王は、そう言って苦笑する。陽子はにっこりと笑みを返した。
「お蔭さまで」
 そう答えつつ、沢山の飾りを下げた笹に歩み寄る。先程飾ったばかりの蘭桂の短冊を手に取り、伴侶を手招いた。
「皆が、私の願いを叶えてくれます」
 短冊を覗きこみ、伴侶は破顔した。そのまま笹を見やり、人の悪い貌を見せる。
「忘れられていなくてよかったな」
「またそんなことを」
 憎らしい軽口に、陽子は唇を尖らせる。伴侶はくつくつと笑い、陽子の頭をぽんぽんと叩いた。その大きな手の温もり。

 養い子のいない初めての春、黙して桜の若木を見上げる陽子をそっと抱き寄せてくれたひと。あのときの陽子は、声をかけることを憚るほどに萎れていたのだろう。実際そうだった。そして、短冊が届かなければ、今も萎れたままだったかもしれない。このひとは、それを察している。

 伴侶の温かさが大きな手から伝わる。このひとは、離れていても、いつも陽子を見守ってくれている。陽子は伴侶に身を寄せて、小さな声で囁いた。

「――ありがとう」

 伴侶は、優しく笑って頷いた。

2015.07.07.
 いつも拍手をありがとうございます。 全国的に七夕の今日、小品をひとつ仕上げてみました。

 小品「さくらさく」〜御題其の百八十一 「七夕を前に」〜 百八十二 「冢宰の密かな楽しみ」〜百八十三 「若木の想い」〜 百九十二 「七夕の午後」と続いた連作、今回は「七夕の午後」の陽子視点になります。

 七夕連作を読み直し、 昨年書いた「織姫さま」の陽子視点を書こうと思ってワードを開いたのですが、 書いてみると、かの方が出張ってしまったのでした。 あれ? ま、まあ、一応尚陽サイトでございますし、いいことにいたします。

 ほんの小品ではございますが、お楽しみいただけると嬉しく思います。

2015.07.07.  速世未生 記
(御題其の二百七)
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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