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御題其の二百八

陽だまり

「――黒い髪のお前を、見てみたかったな」

 陽子の膝枕で緋色の髪を弄んでいた伴侶が、不意にそう言った。陽子は軽く眼を瞠る。それから、小さく吹き出した。
「いきなりどうしたの」
「あちらでのお前は、黒髪だったのだろう」
「そうだけど」
 伴侶の問いに頷いて、陽子は苦笑する。今の緋色に比べればもちろん黒と言ってよい色だが、陽子の髪は赤かった。母に、黒く染めろ、と言われるほどに。赤髪を見つめ、陽子に眼を移した伴侶はぽつりと呟く。

「――不憫だな」
「え――?」

「海客は、我が身と名前しか持って来られないが、胎果は我が身すら持っては来られないのだからな」

 お前はその姿に驚いたのだろう、と続け、伴侶は右手を伸ばす。見つめる瞳も、頬に触れる手も、労わりに満ちていた。陽子は首肯する。これは私の顔じゃない、と叫んだ遠い昔を思い出した。
「――でも、それはあなたも同じでしょう」
「俺は鏡など見なかったからな」
 伴侶はそう言ってにやりと笑う。陽子は思わず吹き出した。確かに、鏡を見なければ、自分の顔など分からないままだろう。

「女は不憫だな」

 今はもう見慣れた緋色の髪に絡められた武骨な指を見つつ、陽子は淡く笑む。あちらで過ごすふたりを夢想したこともあった。桜を見上げる陽子は黒い髪、隣にいる伴侶は今の姿。陽子はあちらでの尚隆を知らないのだから。けれど。
 あちらを恋うたのは遥か昔のこと。こちらでは珍しい花だった桜は、今や国のあちこちを薄紅に染める。ふたりで過ごす花見も恒例となって久しい。臣も民も胎果の王を慮ってくれている。それは、陽子にとって陽だまりのように心を温めるものだった。

「確かに、胎果は我が身すら持っては来られないけれど」

 陽子は己の膝を温める伴侶に眼を落とす。伴侶は手を止めて陽子を見上げた。その手に手を添えて、陽子は微笑する。

「でもね、気づいたんだ。もうひとつ持っているものがあるって」

 訝しげに片眉を上げた伴侶は、黙して陽子を促す。陽子は笑みを深めて続けた。

「それはね、記憶だよ」

 蓬莱の想い出は、時に陽子の胸を切なく疼かせる。でも、それは辛いだけのものではない。花見のように、こちらに根付いた風習もある。金波宮では七夕を祝うようにもなった。それに、陽子の指には銀色の指輪が光る。あちらでは当たり前だが、こちらにはない既婚の印を贈ってくれたのは、我が伴侶なのだ。
 伴侶は大きく眼を瞠った。それから、ゆっくりと唇をほころばせる。重ねた陽子の小さな手は、伴侶の大きな手に包まれた。
「陽子」
「――尚隆(なおたか)
 甘く囁く声と優しく見つめる瞳に促され、伴侶の名を呼び返す。そして、ふたりは静かに唇を重ね合わせた。

2015.08.12.
 いつも拍手をありがとうございます。 我が街の七夕の日には留守にしておりましたので、別なものを仕上げました。 はい、明日から帰省の旅でございます。そんなわけで、水曜更新と相成りました。

 始めは尚隆視点だったのですが、迷走して纏まらなかったため、陽子視点にしてみました。 オチはついたのですが、なんだか恥ずかしい仕上がりとなりました(苦笑)。

 ほんの小品ではございますが、お気に召していただけると嬉しゅうございます。

2015.08.12.  速世未生 記
(御題其の二百八)
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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