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御題其の二百十五

素の願事

 その日は小春日和だった。淡い陽射しが書卓に向かっている主の紅髪を煌めかせる。景麒は眼を細めてそれを眺めていた。
 書簡を捌いていた主が、ふと手を止めて微笑んだ。景麒は少し首を傾げる。主は書卓の横に立つ景麒を見上げ、おもむろに口を開いた。
「――延麒は延王に、緑の山野がほしい、と願ったそうだ」
 景麒は一言、はい、と答えて口を噤む。主は柔らかな笑みを湛え、景麒に問うた。

「――お前は、私に、何を望む?」

 景麒は黙して考えた。蓬莱にて主を見出してからの日々が胸を過る。初めは頼りない少女に見えた。優しいが故に官吏との攻防に疲れ果てて閉じ籠った前の主を彷彿させるような。しかし。
 別たれている間に、主は成長を遂げ、次に会った時には景麒が自然に頭を垂れる立派な王となっていた。金波宮に入ってから諸官に翻弄されていた主は、己の考えで街に降りることを決め、遠甫の許で学び、王として内乱をひとつ平定し、王権を掌握したのだ。
 伏礼を廃す、との画期的な初勅、半獣差別撤廃など、主は精力的に国を整えていった。そして、泰麒捜索の折には、己が斃れた後のことにまで考えを巡らせていることをも示したのだ。

 景麒は主に眼を戻す。勁く輝かしい翠の宝玉は、穏やかに景麒を見つめていた。長い沈黙にも揺らぐことのないその瞳に、景麒は密かに感嘆する。そして、少し唇を緩めた景麒は主に拱手した。

「私の願いは、既に叶えられています」

 景麒の言葉に、主は不思議そうに小首を傾げる。景麒は厳かに続けた。

「願うことはただひとつ、主上のお側にあること。それだけですから」

 御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓う、と誓約した。それなのに、塙麟の手に落ち、偽王の元に送られた。あのときには、もう二度と会えないかもしれない、と覚悟した。麒麟の力を封印された身には、主の王気を感じることすらできなかったのだ。

 主は眼を瞠った。それから、ゆっくりと、花ほころぶような笑みを浮かべて言った。
「――欲がないな」
 その御名のとおり、暖かな陽光の王気が景麒を包みこむ。向けられた笑みは、正視することが難しいほどに美しかった。景麒はふいと横を向く。
「申し上げてよろしいならば」
 景麒は顔を蹙めて主に眼を戻す。口からは諫言が溢れ出た。
「こっそり宮を抜け出すのはお止めください。大僕までも振り切るなど、則が乱れます。それから……」
「も、もういい!」
 主は慌てて景麒を遮り、深い溜息をついた。せっかくいい気持ちになったのに、と小さな呟きが聞こえる。そして、主は再び景麒を見上げ、今度は苦笑してみせた。

「――まあいい。景麒はいつも景麒なんだからな」

 ふふふ、と笑いを零し、主は筆を持ち直す。景麒は穏やかにそんな主を見守るのだった。

2015.11.14.
 更新に沢山の拍手をありがとうございました。

 ツイッター上で開催されている「#十二国記絵描き文字書き60分一本勝負」 第6回「願い」というお題で書いてみました。

 今回のお題は過去に幾度か書いた覚えがございまして、自作の確認をいたしました。 自分用の索引を見ますと「願」「願事」「願事を叶えた後に」「願わくば」とございまして、 全部がっつり尚陽でございました(笑)。 そのため、今回はそれ以外で書こうと思いました。 六太にしようかとも思いましたが、前々回の「金の海原」と被る内容、 しかも、原作「漂舶」にも描写があるなあと断念。慶国主従となりました。

 諸事情ございまして9時からフライイングいたしました。 今回は50分で書き上げました。只今えっちらおっちらアップ準備をしております。 間に合いますように(苦笑)。

 ほんの小品ではございますが、お楽しみいただけると嬉しく思います。

2015.11.14.  速世未生 記
(御題其の二百十五)
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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