「目次」 「玄関」 

御題其の二百三十四

音鳴の箱

 どこからか楽の音がしていた。微かに聞こえるその音は、よく聴く笛でも二胡でもない。聞き慣れた音のようで、でもここしばらくは聞いていなかったようで。陽子は筆を持つ手を止めて、しばし眼を閉じた。
「――あ」
 懐かしい音を思い出し、陽子はひとりにっこりと笑む。そんなとき。

「何かあったの? 声が回廊まで聞こえたわよ」

 笑い含みの声がして、鈴が入ってきた。盆の上には茶道具と茶菓子が載っている。陽子は笑みを浮かべて筆を置いた。
「オルゴールみたいな音がしたんだ」
「おるごーる?」
 鈴は茶を淹れながら首を傾げて問う。陽子は軽く頷き、説明を続けた。
「うん。蓋を開けると音楽が鳴る箱のこと」
「へえ、陽子の時代には面白いものがあったのね」
 鈴は眼を丸くした。陽子と同じく蓬莱からやってきた鈴ではあったが、あいにく陽子とは百年ほど時代が違う。陽子が日常的に目にしていたものは、鈴にとっては知らないものや珍しいものだったりするのだ。

「元は異国のものだったらしいよ。普通にあったけどね。こう、小さくて綺麗な箱で、開けるのが楽しかった」

 陽子が持っていたのは、ピアノ型のオルゴール。誕生日のプレゼントに貰ったものだった。黒塗りの蓋を開けると小物入れになっていて、そのときには弾けなかった「エリーゼのために」が流れた。小さな陽子は眼を輝かせて何度も開け閉めしたものだ。

 楽の音は既に止んでいた。ふと思い出して見たものの、オルゴールもピアノもこちらには存在しない。陽子は少しだけ淋しい想いを抱きながら、ゆっくりと茶を啜った。

 時はあっという間に過ぎていく。小さな物想いなどに拘ってはいられない。陽子は書卓の上に積み上げられた書簡を黙々と片付ける日々を送っていた。

 ある日いつものように執務室に入った陽子は、書卓の上に見慣れぬものを見つけた。それは小振りの箱だった。陽子の手にもすっぽりと収まるその美しい螺鈿の箱。訝しげに開けてみると、中には小鳥が入っていた。陽子は思わず眼を瞠る。小さな鳥は可愛い声で楽を奏で始めたのだ。
 見開かれていた眼が、小鳥の愛らしさに細められていった。知らない音、知らない曲。それなのに、どこか懐かしい。こちらにはこういうものがあるのか。そういえば、鸞という鳥が人の声を運ぶ世界だった。陽子はくすりと笑いを零す。

「どうかいたしましたか」

 不意に涼しげな声がして、書簡を持った冢宰浩瀚が現れた。陽子は笑みを浮かべて掌の上の小箱を差し出す。浩瀚は微笑した。その様に既視感を覚え、陽子はしばし考える。そして思い出した。螺鈿の空箱を見せたとき、浩瀚はこんなふうに笑ったのだ。陽子は満面に笑みを湛えて声をかける。

「――ありがとう、浩瀚」

 突然の謝辞に、怜悧な冢宰は怪訝な貌を見せる。陽子は笑みを深めて続けた。
「今度は中身が入っていたな」
 浩瀚は唇を緩め、それからおもむろに頭を下げた。どうやら正解らしい。陽子は笑い声を零した。
「手の込んだことをする」

「今回はお好みが分かりましたので」

 登極の祝いに螺鈿の空箱を贈った男はさらりと言ってのけ、殊更涼しげに笑む。軽く眼を瞠った陽子は、にやりと笑って頷いた。

2016.10.30.
 9/20〜10/31の間開催されていた葵さん宅「箱祭り」に投稿いたしました作品を こちらでもアップさせていただきました。 微妙に「螺鈿の箱」と繋がっております。 ほんとうは閣下に語っていただきたかったのですが、陽子主上と鈴の会話を立ち聞きした閣下は その後貝のように口を閉ざしてしまいました……(苦笑)。 そんなわけで、再び陽子主上にお出まし願いました。 今回もほぼワンライだったりいたします……。
 そんでもってさすがお祭り、短い間に今回もふたケタ拍手をいただきました。 自宅じゃ滅多にないことですので感激でございます!

 葵さん、お祭りの企画及び運営、お疲れさまでございました。楽しませていただきました。 どうもありがとうございました!

 珠玉の作品が集められました「箱祭り」跡地がある葵さん宅「時雨庵」は 祭リンク集よりお入りくださいませ。

 11月になりました。 本日の北の国、最低気温は1.8℃、最高気温は3.8℃でございました。 もういつ雪が降ってもおかしくない気温でございます。 冬将軍殿、あんまり急に暴れないでね……。

2016.11.01.  速世未生 記
(御題其の二百三十四)
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
「目次」 「玄関」