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御題其の二百六十二
海の月影
着替えを持って慶主の私室を訪れれば、堂室の主は室内にいなかった。女御鈴は首を傾げ、辺りを見回す。大きな窓から月光が射し込んでいた。
月に惹かれて窓辺に歩み寄る。捜し人は露台に佇んでいた。海を見下ろす横顔は見蕩れるほど美しく、鈴は声なく友でもある女王を見つめる。やがて。
「――鈴?」
振り返った陽子は友の顔をしていた。鈴は詰めていた息を吐き、露台に足を進める。
「――邪魔しちゃ駄目かと思ったの」
鈴は言い訳をした。そんなわけない、と陽子は笑う。その笑みに励まされて鈴は問うた。
「何を見ていたの?」
「海に映る月の影」
小さくそう告げて陽子は雲海に眼を戻す。鈴もまた海に映る月の影を見やった。静かに寄せる波が丸い形を時折歪める。見上げる空には望月が明るく輝いていた。
「――こちらに来た時のことを……覚えてる?」
沈黙は唐突に破られた。躊躇いがちに問う友を見つめると、その眼は海に注がれたまま。鈴はおもむろに首肯した。
「――覚えているわ」
東京へと奉公に向かう途中で雨が降り出した。雨宿りをしようと大きな楠の根元に走りこんだときだった。地面に張り出した大樹の値で滑ってしまった。落ちる、と思ったその後、気が遠のいた。水に投げ込まれ、また意識を失い、再び眼を上げた時にはもうこちらだったのだ。
陽子は黙したまま鈴の語りを聞いていた。その間にも歪な月影は幾度も形を変える。話し終えた鈴はしばし陽子の横顔を見つめた。
「陽子は、覚えてる?」
海を見やる陽子は微かに頷く。そして掠れた声で言葉少なに告げた。
「海に映る月の影を潜ったんだ……。あちらの海は、こちらの虚海と繋がっていた」
月の影から月の影へ。隧道を潜るように、あちらからこちらへ。海に映る望月を見下ろして、陽子は何を思っていたのだろう。今、何を想っているのだろう。
何も言えず、その細い肩を抱きしめた。百年泣いて過ごした挙句、鈴は今現在ここにいる。仲間が集う金波宮で、忙しくも楽しい毎日を営んで。それは、善い国を造りたい、と望んだ景王陽子を助けるため。求めてもらえた喜びを伝えられたなら。その想いが肩を抱く手に力を籠めさせる。
「――ありがとう」
少し冷たい手で鈴の手を包み、陽子は微笑した。見下ろす眼許が緩んでいる。
「月が明るいとよく見えないけれど、雲海を透かして堯天の灯りが見えるんだ」
ここは雲の上だからね、と陽子はおどけた。聞いて鈴は露台の柵から身を乗り出す。夜の海などじっくり見たことはなかった。月が雲に隠れると、海の底には宝石のように輝く灯が見える。鈴は歓声を上げた。
「綺麗ね! 知らなかったわ」
「私が来た頃よりずっと灯りが増えているんだ」
「当然よ」
嬉しげな声に鈴は胸を張る。小首を傾げる陽子の肩を叩き、笑顔で告げた。
「慶は善い王さまに治められているんだから」
景王陽子は大きく眼を瞠る。そして、ゆっくりと美しい笑みを見せた。
2019.08.03.
いつも拍手をありがとうございます。
今回は #十二国記版深夜の創作60分一本勝負 第1回 ということで 久々にワンライに挑戦してみました。 企画してくださった方に感謝申し上げます! 久々故にてこずりました。なんと1時間集中力が続かない! けれどなんとかなりました(苦笑)。
お楽しみいただけると嬉しゅうございます。
2019.08.03. 速世未生 記
(御題其の二百六十二)
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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