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御題其の二百六十四

地の宝石

 空の上には海がある。そう言われて呆れたのはいつの頃だったろう。かなり昔のことだ。実際に己の眼で見るまでは信じられなかったことを懐かしく思い出す。玄英宮の露台から雲海を見下ろして、延王尚隆は唇を緩めた。眼下の海は静かに波を寄せている。

 瞼を閉じると丘の上に立つ屋形の窓から見渡せる瀬戸内の青が見えた。馴染んだ故郷も今は遠い。死体ばかりが浮かんでいた凄惨な海は、全てが終わった後に小船の上から見たときには波音だけが響いていた。

 若。悪たれ。お屋形さま。

 城下の者たちの声が今もなお聞こえるような気がする。だが、彼らは既にいない。皆あの海に沈んでしまったきりだ。守りたかった。守ってやれなかった。そんな悔いが彼らの声を聞かせるのだろうか。
 数多なものをその懐に抱く海。人などあっという間に呑まれてしまう。小松が滅んだその後も瀬戸内の海は変わらず岸に波を打ち寄せているのだろう。時はたゆまなく流れているのだから。

 尚隆は眼を開ける。いつしか陽が暮れて辺りは薄闇に包まれていた。見下ろす海は空の上、陽が沈めば地上の灯が透けて見える。それは来たばかりの頃には見られない情景だった。
 天上と天下は海に分かたれる。雲の上には寿命のない仙が、海の下にはその身に時を刻む民人が住まう。子供が木に生る異質な世界。託されたこの国に残っていた民は僅か三十万人、荒れ果てた土地に妖魔でさえ飢えて落ちた。
 何もなかったあの頃、見下ろすこの海も夜闇に紛れて何も見えなかった。少しずつ人が増え、少しずつ灯が増えた。今や眼下には宝石の如き灯火が輝く。この光の数だけの民人が地に住まうのだ。

「よう。まだ空の上の海が珍しいか」

 後ろから揶揄うような声がした。尚隆は振り向くことも応えを返すこともしない。声の主は慣れた様子で隣に立った。尚隆は欄干に凭れる延麒六太を見ることなく呟く。

「――地の宝石を眺めていた」
「地の宝石?」

 六太は訝しげに下を覗きこむ。それから肩を震わせて陽気な応えを返した。

「気障な例えだな!」
「美しいだろう?」

 海を透かして見える灯火を見つめたまま問い返す。笑声を上げた六太は、楽しげに尚隆の背を叩いた。

「なんにもなかったのにな! 今はこの光の数だけ人がいるんだな」

 尚隆はゆっくりと口角を上げる。そして苦楽を共にしてきた半身と地の宝石を飽かず眺めたのだった。

2019.08.13.
 いつも拍手をありがとうございます。

 8/10の22〜23時に行われた  #十二国記版深夜の創作60分一本勝負 第2回 に挑戦してみました。 が、当日までに纏めきれず遅刻参加でございます。

 書き始めて、これ書いたことある……という既視感に苛まれ、 調べてみると一作ではございませんでした(苦笑)。 「初志」「窓から」等々数作出てまいりまして筆が止まってしまいました。 まあ、14年もやっていれば被っても仕方なかろう!  開き直って書き上げたのがこの「地の宝石」でございます。 同じネタを前回「海の月影」でも使っておりますが、 私は雲海から下界が透けて見えるという原作「月影」下の描写が いたく気に入っているのでございます! 好きだから! 書く!

 自己満足も甚だしい小品ではございますが、 皆さまにもお楽しみいただけると幸いでございます。

2019.08.13.  速世未生 記
(御題其の二百六十四)
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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