伝 言
幾度目かの賭けをした。さて、今回の首尾は如何に。
心躍るものではないが、退屈凌ぎにはなる。延王尚隆は薄く笑んだ。
それからしばしの時が流れたある日、禁門に騶虞を連れた客人が訪れた。報せを持ってやってきた下官は恭しくそう告げる。その訪い人の名を聞いて、尚隆は大きく頷いた。そして、そのまま直ぐに通せ、と命を下した。
ややしばらくして、下官に先導された珍しい客人が執務室に現れた。その爽やかな笑みを見て、延王尚隆は破顔した。
「──よく来たな」
「そんなに歓待されると、何かあるのかと勘繰ってしまうよ」
「察しがよいではないか」
人の悪い笑みを唇に浮かべて見やると、客人は小さく嘆息し、おもむろに跪いた。そして、わざとらしいくらいに恭しく頭を垂れ、口上を述べる。
「延王にはご機嫌麗しゅうございます。此度は私に御用がおありとのこと、奏南国太子卓郎君利広、至急馳せ参じ仕りました」
「長旅ご苦労だったな、卓郎君。ごゆるりと休まれるがよい」
奏南国第二太子卓郎君利広の慇懃な挨拶に鷹揚な応えを返し、雁州国国主延王尚隆はにやりと笑いかける。利広は跪いたままゆっくりと面を上げ、大きな溜息をついた。
「──呼びつけられた挙句にそんな不穏な応対を受けて、ごゆるりできると思う?」
「お前ならできるだろう?」
苦笑を隠さない利広に、尚隆は大きく笑う。そして、榻に坐るよう促した。利広が腰を落ち着けると、女官が心得たように酒盃と酒肴を用意する。それが終わるまで、二人はどちらも口を開かなかった。やがて女官が頭を下げて退出していく。それを確認し、利広は笑みを湛えて訊ねた。
「で? 御用はなんだい?」
「──そう急くな」
軽く笑い、尚隆はゆっくりと酒盃を掲げる。やれやれ、と肩を竦め、利広も酒盃を手にした。
「──何に乾杯するつもり?」
「そうだな……。それでは、麗しき緋色の桜に乾杯」
少し考えて、尚隆は応えを返した。この男と会うときには必ず話題に上る、鮮烈な娘の笑顔が胸に浮かんで消える。尚隆は唇を緩めて乾杯の音頭をとった。
「──乾杯」
利広は薄く笑んで唱和する。桜花の如き麗しい笑みがその胸に浮かんだかどうかは定かではない。そのまま杯を乾かして、利広は唇を歪め、再び尚隆に問うた。
「──いつまで焦らすの?」
「相変わらず、お前は問うてばかりだな」
「破天荒な御仁がまともなことをするなんて、何かあるに決まってる」
利広は即座にそう切り返し、顔を蹙める。尚隆はくつくつと笑い、利広の盃に酒を注ぎ足した。そう言いたい気持ちはよく分かる。
利広とは長い付き合いだ。だが、出会う場所はいつも軋み始めた王国の首都かそれに準じる所で、正式に対面したことなど数えるほど。しかも、尚隆が延王として、奏の太子である利広を招聘したことなど、皆無なのだから。
「──これから荒民が増える、と忠告しようと思っただけだ」
「──」
尚隆は何気なくそう告げる。何処で、と訊ねることなく、直ちに利広の顔つきが厳しくなった。その、察しのよい無言の批判を、尚隆は敢えて目を逸らさずに受けとめる。利広はおもむろに口を開いた。
「──本気?」
「無論、本気だ。でなければ、お前を呼びつけたりはしない」
抑えた口調の低く短い問いに、尚隆は薄く笑んで応えを返す。利広は即座に鋭く問い質した。
「──何故?」
「そんなに不思議なことか?」
「延王……茶化すのはお止めください」
利広は姿勢を正し、改まった口調で尚隆を促す。いつも飄々としていながら、こんなときの利広は王族の威厳を醸す。尚隆はくつくつと笑った。
「お前に号を呼ばれると、むず痒いな」
「では、もう一度。何故なのですか、延王」
「お前に、とうとう巡りあえたからな」
尚隆はしたり顔で答える。利広は目を見張って絶句した。思ったとおりの反応に、尚隆はほくそ笑む。利広は大きく嘆息して言った。
「──ちょっと待ってよ。どういうこと?」
「お前を呼びつけたのは、これが初めてではない、ということだ」
そう、今まで何度か送った書簡には、文公主から太子不在を詫びる丁重な文が返ってきた。尚隆は、気紛れな招聘ゆえ不在時には伝言不要である旨をいつも付記していたし、公主はそれを面白がってもいたのだ。
「それって……」
「──利広、俺は気が長いのだぞ、お前と同様にな」
「──まさか」
利広は目を見開き、再び絶句した。しかし、利広が黙していたのは少しの間だった。脱力したように榻の背に身を凭せかけ、利広は天井を見上げて呟く。
「いったいいつから……。ああ、もう。勘弁してくれよ」
「昔、お前が言ったことだろう」
尚隆は人の悪い笑みを浮かべて揶揄した。そう、利広は昔、延王の最期を予想して語ったことがある。それは実に延王らしくて、尚隆を楽しませてくれたのだ。利広は大仰に肩を竦めた。
「確かに言った覚えはあるけれど……実際には碁石を数えていたはずだったよね?」
「もっと面白い賭けを思いついただけだ」
尚隆が軽く笑うと、利広は大きな溜息をついた。そして乱暴に酒を注ぎ、それを一気に飲み干す。
「私を使うのは勘弁してほしかったな」
「なに、ほんの意趣返しだ。ありがたく受け取れ。だが、文公主は何も知らぬ。逆恨みするなよ」
そう言って尚隆は破顔した。相も変わらず、利広との会話は狐と狸の化かし合いのようだ。言外に含めた想いに、利広は気づくだろうか。
「──ああ言えばこう言う……」
哀しげに嘆息した利広は、尚隆の言いたいことを理解しているようだった。それは次に発せられた問いで確認できた。
「──何故、彼女を置いて逝けるの?」
「陽子を──連れて逝ってもよいのか?」
異なことを言う。
尚隆はにやりと笑って応えを返す。利広は溜息をつき、尚隆を真っ直ぐに見つめる。
「そうじゃなくて……」
「俺が滅王にならずに済んだのは、陽子のお蔭だ。感謝するのだな」
尚も言い募る利広を、尚隆は呵呵と笑って遮る。神の領域を覗き見る立場にありながら王ではない利広には、恐らく分からないことだろう。そんな拒絶を匂わせる尚隆を、利広は暗い目で見つめた。
「──そうじゃない。一緒に残る道は、ないの?」
「ないな」
揺るぎなく即答して、尚隆は屈託なく笑う。末期の決意は、そう簡単に翻るものではない。それを知ってか知らずか、利広は躊躇いがちに問うた。
「彼女は……知っているの?」
「陽子は──己が独りにならない術を知っている。──お前と同様にな、利広」
尚隆は微妙にずれた応えを返し、じっと利広を見つめる。ともに一国を支え、ともに大卓を囲む温かな家族が待つ利広。そして、己と臣を同列に見做す陽子もまた、己の背を見守る数多の目を自覚している。聞いて利広は深い溜息をついた。
「それ……彼女に言ってあげたの?」
「俺が言う必要もなかろう?」
尚隆は利広を見つめたまま目を細めた。それは尚隆の役目ではない。そして、尚隆が伴侶に告げるべき言葉は、ただひとつなのだから。
「──ずるいね、相変わらず……」
利広は諦めたように嘆息した。が、尚隆の依頼を了承したことは確かだった。利広は底冷えする目で尚隆を睨めつけ、おもむろに立ち上がる。
「陵墓は──私と彼女の立ち入りを自由にしておいてくれよ」
「手配しておこう」
「──いつか、二人で行くから」
利広は鋭く言い捨てて踵を返す。それは、利広なりの意趣返しなのだろう。最早話すことなどない、と肩を怒らせたその後ろ姿に、尚隆はゆったりと声をかける。
「ではまたな、利広」
利広はぴたりと足を止めた。が、振り返らずにそのまま去った。尚隆は薄く笑い、その背を見送った。
いつか、利広が陽子に伝えるだろう。長い年月の間に繰り返された邂逅も、交わされた言葉遊びのような会話も。そして──尚隆が口に出さなかった想いをも、きっと語ってくれるだろう。
それが──いつ、どこで、どのように語られるかは、尚隆の知るところではない。後は任せた、とも、言葉にするつもりはない。
いつか逢いし緋色の八重桜の如く、陽子は美しい笑みを見せるのだろう。願わくば、その笑みに、翳りなきように。そのためならば、どんな深謀遠慮も惜しまない。そんなことを言ったなら、陽子は、どんな顔をするだろう──。
尚隆は自嘲の笑みを浮かべ、ゆっくりと首を振る。そう、陽子に、ただひとりの伴侶にそんなことを言う必要はない。愛しい女に告げるべき言葉は、ただひとつ。
愛している。
口に出したことのないその一言を胸で呟き、尚隆は唇を緩める。そして、遠い伴侶の桜花の笑みを鮮やかに思い浮かべた。
2008.04.11.
短編「伝言」をお届けいたしました。
短編「末期」と中編「慟哭」の間に入るお話でございます。難産いたしました。
御題其の十三「伝えられない言葉」を書いたときから、いつか仕上げたいと
思っていたお話でございます。
けれど、尚隆と利広の会話はいつも、楽しく、辛く、疲れます。
ちびちび書き進めていたら、あっという間に2年近く経ってしまいました……。
こんなものばかりでごめんなさい。それでも、お気に召していただけると幸いでございます。
2008.04.12. 速世未生 記