半 身
今宵も眠れずに露台に出た。この露台から最愛の伴侶を、これが最後と見送って、いったい何日が経っただろう。まだ少し冷たい早春の夜風を吸い、陽子は溜息をつく。見上げると、月が皓々と雲海を照らしていた。
その月影に、不意に黒いものが見えた。それは見る間に近づき、陽子は目を見張る。
──麒麟。
無論、己の半身ではないその神獣は、露台にふわりと降り立った。陽子は肩に羽織っていた羅衫を五色の毛並みを持つ獣に着せ掛けた。麒麟はつと転変し、金の髪の少年になった。
「──六太くん」
名を呼んだきり、陽子は言葉を続けることができなかった。この世で一番速い脚を持つ麒麟が、獣の姿で空を駆けてくる理由を訊くことなど、陽子にできるはずもない。
「陽子……」
それは突然現れた隣国の麒麟も同様だった。二人は息を詰めて見つめあう。やがて、伴侶の半身は、絞り出すように掠れた声で問うた。
「──お前は、それでいいのか?」
「いいわけ……ないよ……」
雁州国宰輔延麒六太の短い問いに即答し、慶東国国主景王陽子は耐え切れずに目を逸らす。先日、延王尚隆は末期の別離を愛の言葉のみで陽子に告げた。勿論、永久の別れを受け入れるのは辛かった。陽子は晴れやかな笑みさえ見せる伴侶に胸打たれ、引き止める術を失ったのだ。
「だったら、なんで……!」
六太は声を荒げて陽子に詰め寄った。辛うじてその後に続く言葉を呑みこむ六太の目に、とうとう涙が浮かぶ。陽子は思わず六太の小さな身体を抱きしめた。涙を堪える六太の荒い息を首筋に感じる。細い指が陽子の肩にそっと触れた。
「あいつ──ここに来たんだな」
伴侶が残した刻印をなぞり、六太は溜息をつく。陽子は黙して小さく頷いた。六太は自嘲するように笑った。
「──ごめん。八つ当たりだ」
言って六太は滲んだ涙を拭う。陽子は何も言えなかった。ただ、切なく笑んで、首を横に振るばかりだった。黙して陽子を見つめていた六太が、ふと柔らかな笑みを見せる。
「──あいつ、なんて?」
「──花見に来た、と」
「ああ……なるほど。確かに花見だな」
陽子には意味の分からなかった言葉を、伴侶の半身は理解しているようだった。そして六太は、首を傾げる陽子に問いを重ねた。
「それから?」
「愛している、と」
陽子は薄く笑みを湛えて応えを返す。六太は目を見張り、絶句した。やがて、目を丸くしたまま、六太は更に問う。
「まさか、それだけなのか……?」
「ううん。お前は美しい、お前は優しい、勁い、可愛い、それから……」
笑い含みに応えを返した後、陽子は口籠った。
俺はお前のものだ、永遠に──。
伴侶の半身に、告げる言葉ではない。
「とにかく、美辞麗句の嵐だったよ」
「──呆れた奴だな」
でも、あいつらしいか、と六太は笑みを見せた。陽子は淡い笑みを返す。そう、最後の逢瀬に初めて愛の言葉を告げ、別れを惜しむことなく去っていった伴侶。どこまでも延王尚隆らしい振る舞いだった。
「──で、お前はどうするんだ?」
「六太くん……昔、約束したじゃないか」
六太のその問いに、陽子は微笑した。それは陽子が登極して間もない頃、泰麒捜索の折、大言壮語した挙句の約束。ああ、と六太は大笑いした。
「そうだったな」
「あのときの借りは、きっちり返させてもらうから」
だから安心していいよ、と陽子は笑みを見せた。笑い止めた六太は、ぽつりと呟いた。
「陽子……ほんとに、それでいいのか……?」
「もう、決めたんだ」
陽子は決然と告げた。そう、誰に強制されたわけでもない。景王陽子が残ると決めたのだ。六太は泣きそうに笑う。
「──あいつと同じことを言うんだな」
「私は……あのひとに育てられたようなものだからね」
もう決めた、と延王尚隆も断じたのだ。その様を思い浮かべ、陽子は薄く笑う。そう、王としての気構えも、女としての幸せも、全て伴侶が教えてくれた。言動が似てきても仕方のない話だ。
「けど……お前、これから、どこで泣くんだ……?」
「涙を流す陽子はあのひとが連れて逝ってしまうから、景王である私は、もう、泣く必要もないんだよ」
「陽子……」
陽子は晴れやかに笑った。緊張の糸が切れたかのように、六太は陽子にしがみついて泣いた。陽子は宥めるように六太の背を撫で続ける。
「──あいつは、全て置いて逝く、と言ったんだ。最早俺のものではないから、と……」
絞り出された六太の声は震えていた。嗚咽を堪えるように、囁くように、六太は掠れた声で続けた。
「あいつは……お前も……おれも……置いて……独りで逝くんだ……」
「──違うよ、六太くん」
陽子は小さく首を振り、きっぱりと断じた。そして六太を抱く腕に力を籠める。六太は低く問い返した。
「何が違うんだ……?」
「逝くか、残るか、決めるのは六太くんなんだよ」
尚隆が全て置いて逝くと言ったのは、そういうことだ。
己の意志で決めよ。
稀代の名君は、大事の際はいつもそう諭す。玉座の前に怯む陽子にも、かつて笑みを湛えてそう言った。蓬莱に帰るかこちらに残るか、決めるのは陽子自身だ、と。
「おれ……あいつと逝って、いいのか……?」
「六太くんが、そう決めたのなら、それでいいんだよ」
はっきりと言い切って、陽子は切なく笑った。己にはできない決断だと思うと、少し羨ましかった。けれど。
前例のない王と王の婚姻を認めてくれた己の臣や民人を、放り出すわけにはいかない。そして、何よりも、これまで言を違えたことのない伴侶と交わした約束を、陽子は守りたかった。己のためにも、国を残して逝く伴侶のためにも、置いていかれる全てのもののためにも。
「──お前、ほんとに佳い女だな」
あいつには勿体ない、と涙を滲ませながらも六太は笑う。意外な告白に、陽子は笑みをほころばせ、おどけて言い返した。
「今頃分かっても遅いよ」
「──お前は、桜だ」
六太は不意に真面目な顔を見せた。陽子は六太の言葉を図りかね、問い返そうと口を開く。が、それは叶わなかった。背伸びをした六太が、いきなり陽子に口づけたからだ。
「──っ!」
「大好きだよ、陽子。おれ、お前に会えてよかった。ありがとう」
瞠目する陽子に、六太は眩しい笑みを見せる。それから羅衫を陽子に着せ掛けると同時に再び転変し、見る間に夜空を駆け去った。唇を押さえ、呆然としたまま伴侶の半身を見送った陽子は、やがてゆっくりと笑みを浮かべる。
「──もう、二人しておんなじことを……。さよならも言わせてくれないんだから」
唇に別れの言葉を乗せるだけで、たちまち瞳が潤む。けれども、それはもう、悲しいだけの涙ではなかった。景王陽子の戦友ともいえる隣国の主従。もう、足許に潜む暗闇に悩まされることのない王と宰輔の解放を、心から寿ぐ餞でもあった。
あの二人は、桜のように潔く逝くのだろう。ならば、己もまた、吹く風に逆らわぬ桜の如く、心を静めてそれを受けとめよう。
胸に誓いを秘め、景王陽子は涙を湛えながらも満ち足りた笑みを見せる。その──凛然とした桜の女神のような様を、ただ、月だけが眺めていたのだった。
2008.03.24.
短編「半身」をお送りいたしました。
中編「慟哭」と短編「解放」の間に入るお話でございます。
昨年、拍手連載しながらも仕上げられなかったこのお話を纏めることができて、
感無量でございます。
そして、祭第1弾がこれじゃな〜と思い、掲示板用に「桜の呟き」を書き流したのでした。
はい、これから北の国の桜が散る5月半ばまで、「桜」にどっぷり浸かりたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
2008.03.25. 速世未生 記