滄龍さま「8万打記念リクエスト」
解 放
最後の逢瀬だった。尚隆は、愛しき伴侶の美しい肢体を、五感の全てで確かめ、己の全てで抱きしめた。そして──空が白む前に、縋りつく伴侶の腕を、そっと解いた。
尚隆は身支度を整えて、衣服を纏った伴侶の手を取った。そのまま、時折立ち止まりつつも歩みを進める伴侶の速度に合わせ、ゆっくりとまだ暗い外に向かった。
露台に出ると、繋いだ華奢な手が震えた。それは、まだ冷たい早春の風のせいだけではないと、尚隆は気づいていた。
その手を引き寄せて、口づけを落とす。初めて想いを交わしたときから変わらずに瑞々しい、桜花のような唇に。
これが最後、と胸に言い聞かせながら──。
背に回された華奢な腕に力が籠められた。小さな肩が小刻みに震えていた。
まだ行かないで──逝かないで。
そう言われたよう気がして、尚隆は伴侶の細い身体から身を離す。これ以上抱いていれば、きっと口に出してはいけない言葉を吐いてしまう──。唇に笑みを浮かべ、尚隆は最愛の伴侶に決別を告げた。
「陽子、愛している」
「尚隆……私も……愛してる」
目を逸らすことなく愛の言葉を返し、伴侶は涙を零す。その涙を己の唇で拭い、笑みを湛えた尚隆は騶虞に跨った。
「──尚隆、ありがとう」
輝かしき翠玉の瞳を潤ませて、景王陽子は感謝を告げる。涙を零しながらも、祝福に満ちた笑みを浮かべて。我が伴侶は、鮮烈な紅の女王。別れを惜しむ涙と寿ぐ笑みは、何よりの餞だった。
延王尚隆は今一度伴侶を抱きしめたくなった。しかし、その逡巡は一瞬だった。片手を挙げて破顔すると、騎獣を駆って蒼穹に舞い上がる。
お前に会えてよかった。俺はお前のものだ、永遠に。
そう胸で呟きながら。
* * * * * *
国に戻った延王尚隆は、側近から諫言という名の嫌味を浴びせられた。苦笑を浮かべつつも尚隆は大人しく政務を執る。それを不思議に思う者は誰もいなかった。
薄い笑みを浮かべ、尚隆は次々に書簡を片付ける。国を揺るがすような案件は最早ない。あれほど頭を悩ませていた荒民問題も、隣国の女王が提唱した解決案を諸国が受け入れたことにより、縮小していた。
「──ずいぶん真面目に仕事してるじゃねえか」
「そんなに驚くことか?」
溜まった仕事がなくなりかけた頃、延麒六太が執務室に現れて笑った。真顔で問うと、六太はいつもの如く卓子の上に陣取って大笑いした。
「そりゃあな。天変地異の前触れかと思ったぜ」
「よく分かったな」
書面に目をやったまま、尚隆は静かに応えを返す。すると、六太は凍りついたように黙した。永い年月を共に過ごしてきた半身は、ただの一言で延王尚隆の本気に気づいたようだった。やがて、延麒六太は少し震える声で問うた。
「──なんでだよ」
「答える必要があるのか?」
「ふざけてる場合かよ!」
蒼白な六太を見返し、晴れやかな笑みを浮かべた尚隆はゆっくりと首を振る。もう思い残すことなどない。あとは、時季を待つのみだ、と。ますます蒼褪めた六太は、絞り出すような声で問うた。
「時季って何だよ! それより……陽子はどうすんだ」
「陽子は、いつも言っておる。そのときは笑って見送る、と」
「ふざけんな!」
尚隆の胸倉を掴み、六太は怒声を上げた。麒麟は、こんなときも、人のことばかり慮るのだろうか。そして気づく。六太は、国や民より、陽子を気にかけたのだ、と。尚隆は薄く笑って断じた。
「──もう決めた」
「全部……壊すつもりか」
おれとともに造り上げた国を。涙を滲ませながら、六太は詰め寄る。尚隆はゆっくりと首を振った。
「──全部、置いて逝く。最早、俺のものではないからな、何もかも」
「尚隆……」
六太の小さな手が、力尽きたように落ちた。そして、見開かれた瞳から、とうとう涙が溢れた。おれも置いて逝くつもりなのか、と零れる涙が問うていた。尚隆は微笑する。
お前も、口に出さないのだな。己が本当に聞きたいことを──。
「──勝手にしやがれ」
捨て科白を残し、六太は駆け去った。尚隆はその背を黙して見送り、また仕事を続けた。
* * * * * *
玄英宮で通常通り政務を執りながら、延王尚隆は時季を待つ。時季とは何かと問うた己の半身は、あれから姿を見せない。王宮にいるかどうかも定かではなかったが、尚隆は敢えて六太を捜さなかった。
やがて、北東の雁州国にも春の便りが届く。仕事をきっちりと終わらせて、延王尚隆は堂々と玄英宮を発った。
雁の中でも暖かな南方の山には、早咲きの八重桜が花ほころんでいた。まだ白い咲き初めたばかりの花と、誇らかに咲き乱れる緋色の花をつけるその桜を見上げ、尚隆は微笑する。温暖な伴侶の国では、もう、共に眺めた薄紅の花が吹雪のように舞っている頃だろうか。
遥か昔、この桜に心奪われた。咲き初めし頃には白く、次第に色味を濃くし、散る頃には緋色に染まるこの花に。紅の髪の乙女を手に入れ、いつしか忘れていたが、末期を決意したときに、もう一度同じ花を捜した。最期を共に過ごすために。
「陽子……お前はとうとう口にしなかったな」
置いて逝かないで、私も逝く。
縋りつく腕が、翠玉の瞳から零れる涙が、伴侶の想いを語っていた。しかし、延王尚隆が愛した女は、最後まで女王だった。毅然と立つ、この緋桜のように。
凛然とした美しさを持ち、艶やかに咲き誇りながら阿ることなく、散り際も潔く麗しい。景王陽子は、桜の如き見事な女。延王尚隆が伴侶と定めた、ただひとりの運命の女。
天に背き、自ら命を絶とうとする王を、景女王だけは咎めない。暗い深淵と闘いながらも、尚隆は独りではなかった。王の狂気を識る伴侶が、いつも尚隆の心を支えてくれた。暗闇に紅の灯りを点す伴侶を、今尚恋うている。
共に逝こうと誘えば、麗しき女王は笑みさえ浮かべて頷くのだろう。もしかして、玉座からの解放を求める思いは、景王陽子の方が強いのかもしれない。だからこそ。
桜のように潔く逝こう。輝かしき女王を暗闇に落とす前に。
「見事な桜だな。──陽子みたいだ」
不意に聞き慣れた声がした。お前もそう思うか、と振り返りもせずに答えた。六太はくすりと笑って言った。
「お前が、あんな佳い女を置いて逝く気になるとは思わなかったな」
「お前なら、黄泉路に陽子を伴えるか?」
尚隆は振り返り、にやりと笑って問うてみる。六太は苦笑して、首を横に振った。
「おれには無理だ」
そうだろう、と応えを返し、尚隆は呵呵と笑う。そんな尚隆を、半身は切ない目で見つめていた。物問いたげな六太に翳りない笑みを向け、尚隆は訊ねる。
「言いたいことがあるのだろう?」
「──陽子に、会ってきた」
言って六太は再び黙す。躊躇う口調とは裏腹に、六太の瞳は真っ直ぐに尚隆を見つめる。それは、伴侶の翠玉の双眸を思い出させた。
「あいつは……お前が涙を見せる陽子を連れて逝くから、泣く必要もないんだ、と言って笑ってたぞ……」
──陽子。
尚隆は胸を衝かれ、思わず瞑目した。涙を浮かべつつも見せた、最後の笑みが蘇る。そして──陽子はあなたにあげる、と羞じらいつつも微笑んだ、あの日を思い出した。私は誰のものでもない、と言い続けてきた女王が、初めて己が身を自ら尚隆に差し出した、あのときを。
他に何もあげるものがないから、中嶋陽子をあなたにあげる。私を、小松陽子にしてください──。
頬を染めた伴侶は、匂やかに笑ってそう言ったのだ。
目を開けて微笑む尚隆を、六太は尚も見つめていた。尚隆は、もう一度、視線で六太を促す。六太は大きく息を吸った。
「──おれも逝く」
六太の応えは短く、断定的だった。尚隆は驚きもしなかった。六太が現れたときから、その答えを予期していた。が、笑みを湛えた尚隆の唇は、想いと違う言葉を吐く。
「道連れなどいらないぞ」
六太は目を閉じ、しばし黙す。目を開けて尚隆を見据えた六太は、もう一度大きく息を吸い、おもむろに口を開いた。
「──おれは、二度と、王なんか選ばない」
「よい覚悟だな。では共に参ろう」
尚隆が肯定の応えを返すと、六太は清々しい笑みを見せた。苦楽を共にしてきた六太のその笑みに──遥か昔、蓬莱で死んでいった民たちの顔が重なった。
* * * * * *
延王尚隆は、桜からのどかな山野に視線を移す。初めて降り立ったこの国は、妖魔すらも息絶える荒涼とした姿を見せていた。今、目に映る景色は、まだ冬枯れた様子を残しながらも、春に目覚めつつある豊かな自然だ。尚隆は、己を蓬莱からこの地に導いた半身を見やる。
「──六太」
「なんだよ」
「宰輔を道連れに、自ら命を絶つ愚王は、何と諱されるだろうな」
荒廃を知らぬ雁の民。豊かな雁に驚く荒民たち。それなのに、国主延王である己は、平安を謳歌する民から、安寧を取上げようとしている。己のみならず、宰輔の命まで奪えば、天は相応の制裁を下すだろう。次の王が起つまで、かなりの時間がかかるに違いない。
王が斃れれば、天候は不順になり、妖魔が現れ、国は荒れる。いつの世も、市井に生きる者は、上に立つ者の思惑に振り回され、流されていく。国を見捨てた王を、民はさぞ憎むことだろう。
「そんなもん、分かるわけないさ」
慈悲の生き物であるはずの麒麟は、存外に明るい声でそう返す。尚隆は僅かに目を見張る。
「斃れた王は、憎まれて当たり前じゃねえか。でもさ、滅王でないことだけは確かだな」
言って六太はけらけらと笑う。そうだな、と返し、尚隆も一緒に笑った。六太は小首を傾げる。
「今更、そんなことを気にするのか?」
「なに、単なる好奇心だ」
軽く答え、尚隆はまた緋色の桜を見上げた。胸に抱く伴侶は、満開の緋桜の如き、麗しい笑みを浮かべる。登極後間もない頃、若き女王は延王尚隆をやりこめ、助力を引き出した。
(この借りは後々、必ず返させていただきます)
そう言って破顔し、景王陽子は一礼した。いつの話だ、と顔を蹙めた尚隆に、伴侶は爽やかな笑みを返した。
(それは勿論、延王が斃れたときに。雁が騒乱に巻き込まれるときまでには慶を立て直しておくと約束します。安心して頼ってください)
鮮やかな紅の女王を思い浮かべながら、延王尚隆は横に立つ半身に語りかける。
「──では、安心して景王陽子に頼るとするか」
景女王、後は頼む。俺は、先に逝く。胸に陽子を抱いたまま──。
咲き誇る桜に笑みを向け、延王尚隆は剣を抜く。延麒六太はにこやかに頷いた。
* * * * * *
そしてその日──。永遠に落ちることがないと謳われた、雁の白雉が落ちたのだった。
2007.06.01.
「8万打記念」リクエスト、短編「解放」をお届けいたしました。
御題は「慟哭後の尚隆」でございました。
「尚隆が最後に陽子の元を訪れてから末声まで約二週間ほどあると思いますが
その間彼は何をしていたのかが気になっているので、そのあたりでなにか抱えている
話しがあればそれを書いて欲しいのです」とコメントをいただきました。
そんなわけで、去年は思ってもいなかった、
尚隆の最期を書いてしまいました──。
なんだか放心しております。
滄龍さま、「桜」「末声物」限定リクという但し書きのあったキリ番を狙ってくださって
ありがとうございました。そして、気長にお待ちくださってありがとうございました。
お気に召していただけると嬉しいです。
2007.06.01. 速世未生 記