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末 期まつご

 ──もう、終わりにしよう。

 ある日、唐突にそう思った。どうせ、もう、何もかもに飽いていたのだ。 ただ、終わりにする切っ掛けがなかっただけだった。それでもこの世に残っていたわけは──。

 延王尚隆はふらりと玄英宮を飛び立った。眼下には活気に満ち、賑う関弓の街が見えた。 長き王朝の庇護の下、永遠の平安を謳歌しようと興じる人々の群れ。 雁が崩壊するなど、彼らは思ってもみないのだろう。 それくらい長きに渡り、雁州国国主延王尚隆は玉座に座り続けているのだった。

 ──永遠など、ありはしない。

 尚隆は皮肉に口許を歪める。始まりがあれば、必ず終わりがある。王は神で、寿命がない。 それでも、どの王も、いつか必ず斃れる日が訪れる。 そうやって、幾つもの王朝が、姿を消していった。数多の末声を聞いてきたのだ。
 天意を得て立った王が、何故道を失うのだろう。かつてそう問うていた男がいた。 違うと分かっている道に歩を踏み出す瞬間の心は想像できない。 何がそうさせるのだろう。どうすればそれを止められるのだろう。
 あの男は、神の領域を覗き見る立場にありながら、王ではなかった。 天命に縛られぬ者には、この暗闇を理解することはできぬだろう。
 王は天に捧げられし贄。この身と命は天命に縛られる。 そして目の前には、敷かれ整えられた道が果てしなく続く。 王は、己が敷いたその道を、ただ踏み外さぬように歩くのみ。
 国が落ち着けば落ち着くほど、己を縛るものを意識せざるを得ない。 国民が永遠を望めば望むほど、国と民の重さを感じるのだ。 光の後ろに影ができるように、王の足許には常に暗闇が潜む。 王で在ることとは、己を呑みこもうとする昏い深淵と戦い続けること。

 何故王は狂気に呑まれ、民を虐げるのか。

 民に平安を与えるはずの王が。道を知り、重んじる者は、そう言って首を傾げる。
 そんなことは知れている。民が、王を、縛るからだ。尚隆は薄く笑う。 己の責務から逃げられぬ王は、少しずつ、狂気に蝕まれていくのだ。 真面目な者ほど、その思いが強いのかもしれない。

 王が、最もしなければならないこと。それは、己を律し、少しでも長く生きること──。

 師匠である太師遠甫がそう教えてくれた、と伴侶は美しい笑みを見せた。 そう、延王尚隆の伴侶は、隣国の国主景王陽子。 かつて、玉座の前に竦み、王であることを厭っていた娘。 重い責務に気負っていた女王は、師のその言葉に救われたのだ、と語った。 それは、いったい、いつのことだったろう。
 延王尚隆は、己をこの世に留める縁である伴侶に想いを馳せる。 「愛している」──そう告げたなら、伴侶はきっと、気づいてしまうのだろう。
 桜のように、散り際は潔くありたいものだ。そう語ったことがあった。 そのとき伴侶は、包みこむような優しい笑みを見せた。翠玉の瞳を潤ませながら。

(……そのときは、私だけでも、笑って送ってあげるよ)

 陽子。お前は、涙を見せるだろうか。──哀しんで、くれるだろうか。

 逝かないで、と最愛の伴侶に言われても、もうこの決意は揺らがない。 しかし、一緒に逝く、と言われたら──。己はいったいどうするのだろう? 尚隆は昏く嗤う。

(──楽にしてやろうか? 俺が、この手で)

 かつて悩める女王にそう囁いたことがある。 反射的に振り返った景王陽子は、激しく首を横に振った。 その瞳に浮かぶ昏い喜色を隠しもせずに。 そう、伴侶は尚隆の手にかかることを、嬉しい、と思ったのだ。
 暗闇の、甘い囁き。 微動だにせず目を閉じる清麗な女王の首を一刀両断し、笑みを浮かべつつ己の命をも絶つ。 そんな甘美な誘惑を、尚隆は何度も胸に思い浮かべては打ち消した。

 ──天命に縛られる王だからこそ。自ら命を絶つことが、罪である王だからこそ。

 そう、尚隆は気づいてしまったのだ。 これ以上玉座に留まれば、同じく天命に縛られる伴侶を道連れにしたくなる。 共に在りながら、共に暮らすことができなかった伴侶と、共に逝きたくなる──。
 尚隆が本気で望めば、伴侶はそれを拒まないだろう。 輝ける翠玉の双眸に昏い闇を隠す女王は、その朱唇に深い笑みを刷き、黙して頷く。 延王尚隆の持つ昏い深淵を受けとめ、王の持つ狂気を識る唯一の女は、きっと躊躇うことない。

 共に堕ちよう──。

 暗闇は甘く囁く。隣国の麗しき女王と手を取り合い、天命に背いて自ら命を絶つ。 そんな誘惑に、勝てなくなる。
 そう──己をこの獄に閉じこめる天の意思などに従うものか。 蓬山に禅譲を求めることなど、考えたこともない。 己の死に時くらい、己で決める。例え、国が荒れると分かっていても。
 眼下に広がる豊かな国土を見下ろす。天から与えられた己のものを。 かつて、蓬莱で己の国を呆気なく失った。 失われると分かっていながら、ただ足掻くことしかできなかった。 民に託されたものを、守れなかった。
 そんな思いなど二度としたくない。託されるものが在る、と聞いてこちらにやってきた。 荒れ果てた何もない国を立て直した。この国は、己のもの。 それ故に、全てを道連れにしようとも思ったこともある。 己が興したものを、全て己が無に帰そう──。
 しかし、同じく蓬莱から来た娘が教えてくれた。 人は誰のものでもないと。人は己の王であり、己のものであるべきだと。
 己が治める国の民人に、己が己の王であれ、と命じた清廉な女王。 その明快な言葉は、国も民も王のものであると思う昏い狂気を払ってくれた。
 決して己だけのものにはならぬ女を愛した。己と同じ定めを持つ、隣国の輝かしき女王を。 末期の決意をしても、こうして想いは伴侶に還っていく。

 陽子、俺はお前のものだ──。

 初めて素直にそう思った。今際の際にそう告げたなら、お前は泣くだろうか。 それでも、お前は俺を縛らないのだろう。俺を、風、と呼ぶお前は。
 尚隆は久しぶりに心からの笑みを浮かべた。この想いを伴侶に余すことなく伝えよう。 延王尚隆が初めて自ら欲し、生涯をかけて狂おしいほど愛した女に。
 俺は俺の道を選ぶ。今までも、これからも。他人の思惑など、関係ない。 桜の如く、散り際は潔く。桜と共に逝こう。
 お前の道を、お前が選べ。あのとき、故郷を捨てて俺を選んだように。 お前の決意を、俺は尊重しよう。
 生涯最大の博打を、最後に打つ。 心を決めた延王尚隆は、長年身の内に巣食う昏い闇を払い、晴れやかな笑みを見せた。

2006.10.10.
 「1周年記念リクエスト」第5弾、短編「末期」をお送りいたしました。 お待たせいたしました。粗書きして、呆けておりました。
 このお話は、リクをいただいてすぐに冒頭を書き始めてしまった代物でございます。 それくらい、書きたくて、でも書くのが辛いお話でした。
 この後のお話、「慟哭」は、桜の季節までお待ちくださいませ……。


2006.10.10. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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