花 月
* * * 序 * * *
落ちることがないと謳われた大国の白雉が落ちて、幾年が過ぎたことだろう。
王のいない国は荒れる。王が宰輔を道連れに自ら命を絶ったとなれば、それは尚のこと。
それでも、王の不在に慣れていた官吏たちは黙々と国を支え続けた。備蓄を少しずつ崩しながらもよく耐えた。新たな麒麟が新たな王を選ぶまでの長き時を、なんとか持ちこたえた。無論、それには理由があった。
かつてこの国の王に頼って登極した隣国の女王が、惜しみなく手を差し伸べたのだ。そして、この女王が提唱していた、王が斃れても民が救われる術を残す制度は、既に定着していた。王を喪った官吏たちも、新たに登極した王も、すべからく景王を称えた。かつての王の伴侶でもあった、麗しき女王を。
落ち着きを取り戻しつつある雁州国王都関弓をつくづく眺め、利広は微笑する。最初の山を越えた新王は、そう簡単に斃れることはないだろう。
利広は騎獣を駆り、空に舞い上がった。蒼穹から見下ろすと、そこかしこに災異の爪痕が残る。それは、国と民を捨て、宰輔をも道連れにした王への報い。そして、王をこの世に留めることができなかった国と民への報いでもあるのかもしれない。
禅譲することなくこの世を去った稀代の名君は、それをも知っていたのだろうか。最後に見た揺るぎない笑みは、何もかもを受けとめる覚悟を秘めていた。
民を虐げることもなく、突如この世に見切りをつけたかの王を思い出し、利広は瞑目した。己がなくとも国が回る仕組みを敷いていた名君。国と民を愛し、ゆっくりと育んでいたあの王でさえ、昏い闇に呑まれてしまうのだ。王を繋ぐ頚木の重さを、利広は改めて感じた。
そして、玉座の重みを知るもうひとりの王を思い、利広は小さく息をつく。それから、騎獣を降り、己の足で凌雲山の道を登り始めた。
「君は、そろそろ肩の荷を降ろしたかい?」
利広は空に問いかける。胸に浮かぶ美しい顔は、淋しげな笑みを見せる。雨に打たれる桜花のように。
時機が来た。
利広は薄く笑む。後ろを見ずに走り続けてきた女王が、足を止める頃。ずっと待ち続けてきた、再会の時期。
「──風漢、私は彼女に会いに行くよ。後悔、しないね?」
利広は斃れた王の陵墓にそう語りかけた。風が、さわさわと笑ったような気がした。
* * * 1 * * *
陵墓のある凌雲山から、利広は雲海の上を飛んだ。麗しき女王は、どんな貌で迎えてくれるだろう。想像しながら海を渡ることも楽しかった。
やがて堯天山が見えてきた。利広は月を背にし、女王の堂室を目指す。王宮の造りなどどこも変わらない。王が住まう正寝の中で、雲海に面する堂室にあたりをつけた。女王が海を好んでいることを利広は知っている。
雲海を見下ろすひときわ広い露台に人影があった。月に照らされた細い身体は、宮の主に違いない。利広は唇を緩め、高度を下げた。
露台に立つ人影が、見る間に大きくなる。麗しき女王は、翠玉の瞳をいっぱいに見開き、泣きそうな貌を見せた。
利広は片手を挙げ、敢えて明るい笑みを浮かべながら露台に降り立つ。久しぶり、と声をかけると、女王はにっこりと笑みを返した。
「──珍しいところからご登場だね」
鷹揚な女王は、礼を欠く雲海の上からの訪問にも少しも動じない。寧ろ面白がっている様子さえ見せる。しかし、こんな訪れが女王に何を連想させたか、利広は無論気づいていた。
「──そろそろ、私が必要な頃かと思ってね」
独りで月を見上げていた、美しき女王。月影に融けてしまいそうな儚い笑みに、さらりと本音を告げた。
きっと、伝わらないだろう。それでもいい、今はまだ。
「変わってないね、利広」
女王はくすりと笑う。案の定、利広の本音をほんの軽口と取ったらしい。利広は笑みを湛えて応えを返す。
「人は、そんなに変わるものじゃないよ、陽子」
「──人じゃないくせに」
女王は上目遣いで利広を軽く睨む。その様は、武断の女王を見かけどおりの少女に見せた。利広は女王に笑みを向ける。
「──君だってそうだろう」
ゆっくりと近づきながら、じっと翠玉の瞳を見つめた。鮮烈な輝きを宿していた翠の宝玉は、今や穏やかで、深い愁いを秘めていた。きっと、その目を覗きこむ者など、誰もいないのだろう。
利広は目を逸らすことなく女王の眼前に立つ。淡い笑みを浮かべ、女王は利広が促すままに瞼を閉じた。
そっと触れた桜花のような唇は、夜気に冷たくなっていた。いや、その前から、既に熱を失っていたのだろう。瑞々しい朱唇から唇を離し、利広は嘆息した。きっと、利広にも、女王の熱を掻き立てることはできない。少なくとも、今はまだ──。
それなのに、どうしてこうも簡単に男を受け入れるのだろう。その問いに、女王の応えは明快だった。
「私に触れてくるひとは、そういないんだよ。貴重なひとを拒めるわけがないじゃないか」
やはり──。
孤高の女王は鮮やかに笑う。が、その笑みに陽光の力強さはない。危うい美しさに、利広は笑みを引く。そして、暗い深淵を隠す双眸を覗きこんだ。愛がなくても男を容れる、その意味を瞳の奥に探して。
「──好きじゃなくても?」
「あなただって、それは同じでしょう?」
恋しい女は、利広の胸を貫く言葉を無邪気に放つ。唇を許しながら、男の想いを否定する、残酷なその応え。
何故──そう思える?
雲海の上から来た意味を、分からないとでも言うのだろうか。それとも、分かりたくないのだろうか。利広は溜息を飲み下す。
女王の心は閉ざされたままだ。だからこそ伝えなければならない。柔らかな拒絶に傷ついている場合ではないのだ。利広は、翠の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私は、君が好きだよ」
「ありがとう。私も利広が好きだよ」
利広は真面目に告白した。女王はそれをも軽口と取ったらしい。にっこり笑って応えを返す女王に、利広は苦笑した。
「陽子、私は本気で言ってるんだよ」
愛しい女を守りたい。玉座に縛られる女王を寛がせたい。それは、共に並び立つ王にも、見上げる立場の臣にもできないこと。神の領域を垣間見る立場にありながら王でない利広にしかできないことなのだ。利広はそう信じていた。
利広は女王の華奢な身体を引き寄せる。そして想いを籠めて熱く深く唇を重ねた。素直に預けられた身から力が抜けていく。それでも、きつく抱きしめたその身体が熱を帯びることはなかった。
* * * 2 * * *
夜の潮風が露台を吹き抜ける。女王の長い緋色の髪が、さらさらと靡いた。その音も、色も、儚く美しい。
こうして触れていても、幻であるかのように。
ただ一度の僥倖を、何度も夢に見た。夢の中でさえ、愛しい女はこの腕をすり抜けた。抱きしめていてさえ、想い人は遥か遠くにいるかのようだ。
利広は唇を離し、腕の中の女王を切なく見つめた。甘い溜息をつき、女王は仄かに笑う。それでも、利広の想いは伝わらない。そんなことは分かっていた。
「──利広、こんなことしていて、あなたの恋人は怒らない?」
思ったとおりの答え。しかし、もう、そんな言葉に傷ついたりしない。心閉ざす武断の女王に寄り添うためには、柔な覚悟ではいられないのだ。利広は片眉を上げ、飄々と応えを返す。
「酷いことを言う。私は君が好きなのに」
「あなたはいつも冗談が巧いからね」
「──陽子、恋敵が紅の女王だと知れば、どんな女でも裸足で逃げ出すよ」
「そんなことばかり言って」
麗しき女王は桜花のような笑いを零す。利広は目を細めた。恋しい女は目の前の紅の女王だけ。それなのに、当の本人は本気の告白をも冗談と取る。軽口の応酬の後、利広は嘆息した。
「本気と冗談の区別もつかないの?」
呆れたようにぼやく利広に、女王は少し顔を曇らせる。利広は再び苦笑して続けた。
「──君は、愛のない口づけなど、知らないんだね。それはそうだよね。邪な者が、君に近づけるとは思えない。そんな奴は、君を見つめ返すことすら、できないだろうから」
この女王の翠玉の瞳を臆せずに覗きこめる男など、そういるものではない。誰もが女王を押し頂き、見上げるばかりなのだから。
「利広──?」
しみじみと語る利広に、女王は目を見張る。今、愛しい女に何を言っても利広の想いは伝わらない。ただ軽口の応酬が続くだけ。
それでもよいと思ったのは、女王の──陽子の無邪気な笑みを引き出せたから。
「──また、近いうちに会いに来るよ」
見開かれた瞳に明るい笑みを送り、利広は女王の朱唇に軽く口づけた。そのまま身を翻し、騎獣に飛び乗る。そして月に向かって飛翔した。
利広を見上げる女王が、見る間に小さくなる。恋しい女を見下ろして、利広は薄く笑った。
陽子、君は変わらないね。だからこそ、君に寄り添おう。君が心を開くまで、閉ざされた扉を叩き続けるよ。何度も。何度でも。
月を眺め、利広は次の手を考える。無邪気で無防備な想い人よりも、女王の側近のほうが利広の本気に反応するに違いない。女王を守る手強い連中を思い起こし、利広は軽く笑った。
障害は多いほうが、恋はより燃え上がる。得難い緋色の桜だからこそ、切ない想いも募る。凛然と立ちながら、淡く儚い笑みを見せる桜花のような女王を、利広は愛して已まない。
眠れる桜が目覚めるまで、その梢を優しく揺すろう。開花を促す春風のように。今一度、艶やかにほころびる桜花を見るためならば、悠久の時間をかけても惜しくない。
どうして、と女王は問うのだろう。翠の宝玉を見開いて。利広は胸で呟いた。
君が自分で気づくまで、いつまでも待っているよ──。
2008.05.12.
『2008「十二国」桜祭』管理人作品第14弾、短編「花月」をお届けいたしました。
小品「来訪」の利広視点になります。
「来訪」連作で一番書きたいのは「王さまの耳はロバの耳」の続きでございます。
けれど、それは「来訪」の続きを書かないと書けないお話なのです。
その「再訪」というお話がどうにも進まなくて、「来訪」の利広視点を書いた次第でございます。
「来訪」を書いた時点では、利広の本音がちっとも読めませんでした。
今回、風の御仁は忌憚なく本音を語ってくださり、感無量……。
祭最終日にこのお話を纏めることができて、ひと安心でございます。
お気に召していただけると嬉しく思います。
2008.05.12. 速世未生 記