風 来
咲き初めた薄紅の花を、懐かしげに見上げる女王。微風に揺れる桜は、その訪れを歓迎しているかのようだった。
さわさわと音を立てる桜花に手を伸ばし、微笑する麗しき女王。そんなふうに桜と語る女王を、祥瓊は静かに見守る。
やがて、時が止まったように静かな庭院に現れた、ひとつの人影。それに気づいて祥瓊は、ぐっと眉根を寄せる。
傍若無人に現れて金波宮を引っかきまわす気儘な旅人は、祥瓊に気づくと、嫌味なくらいに爽やかな笑みを向けてきた。祥瓊は顔を蹙めたまま静かに首を横に振る。喪われた伴侶と語る如く桜を見上げる女王の邪魔をしてほしくはなかった。しかし、それを無視するかのように片手を振り、招かざる客人は朗らかに笑んで女王の名を呼んだ。
「──陽子」
驚いたように振り返る女王は、僅かに目を見張り、それから花開く桜のような美しい笑みを見せた。思わず祥瓊は痛む胸を押さえた。
いつもいつも気紛れな旅人は女王の忘れられた笑みを引き出す。祥瓊が、金波宮の誰もができぬことを、あっさりと実行してみせるのだ。
「久しぶりだね、利広。今日はどうしたの?」
庭院が時を刻み始める。桜に連れ去られていた女王が現に戻ってきた。そして、その桜も微かに枝を揺らして気儘な客人を歓迎してるように見え、祥瓊はしばし俯いた。
女王は忘れた頃に現れる友人と楽しげに会話をしていた。向ける笑みは喪失を払拭し、眩しい陽光のよう。己にできないことをやってのける人物を、祥瓊は複雑な目で見つめる。そのとき、女王が不意に祥瓊を呼んだ。
客人のために杯と酒肴を用意するように命じ、女王は再び客人と談笑する。畏まりまして、と頭を下げた祥瓊は急いでその場を辞し、手近の女官に酒肴と甘味の準備を頼み、庭院にとって返した。二人きりにするのは心配だった。
陽子は、かの方を忘れない。それでも風来坊の太子は女王を口説きに現れる。鈍い陽子は本気にしていないが、周囲の者には太子の思惑が明確に分かっていた。故に、女王以外の誰にも歓迎されない客人である。それでも奏南国太子卓郎君利広はふらりと気儘に女王を訪れた。しかし、桜咲くこの時期に現れたことはなかったのだ。
かつて桜が女王の伴侶を連れ去った。私くらい笑って見送る、と女王は淡く微笑んだ。その言葉どおり、最愛の伴侶を喪って尚、女王が涙を見せることはなかった。痛ましいくらいに王として振る舞い、国主を亡くした隣国を支え続けた。その毅然とした背を慰めることなど、誰にもできなかった。それなのに。
ある日いきなり訊ねてきた大国の太子が女王の凍てついた心を融かした。気紛れな一陣の風に見せる柔らかな笑み。祥瓊は喪われたかの方と会話する女王を思い出していた。似ているようでまるで違う風に心開く女王を見るのは辛いことだった。
そして今、桜の根元に並んで坐る二人は、肩が触れるような至近距離で語らう。祥瓊の見ている前で手を伸ばすようなことはしないだろう、そう思いつつも、女官に渡された盆を持ち、祥瓊は二人の間に割って入った。
祥瓊に気づいた陽子は、ありがとう、と笑みを寄越した。客人は楽しげに笑った。軽口を叩く太子に冷たく応えを返し、祥瓊は顔を蹙めた。そんな祥瓊に、太子はふと真面目な顔を見せ、ふわりと笑んだ。
「私はね、祥瓊……。旅人だからね」
喪われた隣国の王と同じく──。
このひとは、陽子の前でも平気でこんなことを言う。祥瓊は滲み出そうな涙を堪えた。けれど、陽子は満開の桜花のような眩しい笑みを見せた。
ああ──また……。
祥瓊が怖くて口に出せないことを何気なく口にするこのひとを、憎んでしまいそうになる。けれど、景王陽子がふと陽子に戻るその一言を、涙が出るくらい嬉しいとも思う。複雑な想いを抱く祥瓊を、大国の太子は柔らかな笑みで見つめていた。
やがて急な案件を持ちこまれ、女王は名残惜しげに席を立つ。その背を鷹揚に見送り、気紛れな客人は自ら杯に酒を満たす。それから、桜を見上げてそれを高く掲げた。微風に揺れる桜は客人に応えているように見え、祥瓊は小さく息を呑む。
懐かしげな笑みを向けて杯を乾かす太子を、祥瓊はじっと見つめていた。その視線に、太子はおもむろに問うてきた。
「──何か不満かい?」
「何故……わざわざこの時期にいらしたのです?」
何故、女王が喪われた伴侶を恋う、桜の季節にわざわざ現れたのか。桜と語り合う女王をそっとしておくしかできないこの季節に。
どうしてだと思う、と予想通りの応えが返ってきた。もとより素直に答えてくれるような親切な人ではないと知っていた。それが分かれば訊いたりしない、と冷たく言うと、太子は本当に楽しげに笑った。
「──桜と杯を交わしたくなっただけさ」
そう言って再び杯を酒で満たし、太子はまた桜に掲げた。切なげに、懐かしげに微笑みながら。その貌は、桜に語りかける女王と同じ種類のものだった。
この方もまた、喪われた稀代の名君を悼んでいるのだ──。
かの方よりも永きに渡り旅を続ける貴人は、かの方の、そして景王陽子の同士なのだ。そう思い至り、祥瓊は胸を衝かれた。
いつか──陽子はこの方の手を取るのかもしれない。かの方を忘れない陽子を受けとめるためにやってきた、この方の手を。
漠然とそう思った。もしも、陽子がそれを望むなら、反対するのは止めておこう。祥瓊は唇に笑みを浮かべ、桜を見上げる客人に恭しく拱手した。
「祥瓊、私は、旅人なんだよ」
太子は桜を見つめたまま、もう一度そう告げた。風に揺れる桜の音が、かの方の笑い声のように聞こえ、祥瓊は太子と桜に、もう一度心から頭を下げた。
2007.04.09.
ここしばらくワードを開けてもいなかったというヘタレな管理人でございます。
そのため、この「風来」はリハビリ的に書き流しました。お粗末でございました。
管理人作品第3弾「桜の背」の続きで、「追憶」「桜雨」後である「来訪」連作の一部になる
と思います。
微かに(かなり?)「利祥対決」な一作と相成りました。
お気に召していただけると嬉しく思います。
2007.04.09. 速世未生 記