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風 想かぜのおもい

 この季節に金波宮を訪れたのは、初めてかもしれない。美しい薄紅の花が咲き乱れる中、輝かしき女王の住まう王宮は、微かな緊張に包まれていた。
 禁門にて騎獣を預け、いつもの如く、勝手気儘に正寝を歩いた。宮の主がいる場所は、恐らく庭院。はたして彼女は薄紅色の花を開く木の下に静かに佇んでいた。
 紅の髪を靡かせる華奢な背を見つけ、薄く笑む。そして、反対側の回廊にて、同じく女王の背を見守る女史に、片手を挙げて微笑を送った。
 国主景王の友でもある女史は、憂いを秘めた顔を見せ、静かに首を横に振った。桜と麗しき女王の声なき語らいを妨げるな、と。それに気づかぬ振りをして、挙げた手を小さく振り、にっこりと笑みを送る。そして、おもむろに女王の名を呼んだ。

「──陽子」

 振り返る女王は、宝玉の如き翠の瞳を僅かに見張る。それから、花ほころぶような眩しい笑みを向けた。
「久しぶりだね、利広。今日はどうしたの?」
「そろそろ、花見の時期かな、と思ってね」
 朗らかに笑んで、利広は土産を少し持ち上げてみせた。その酒瓶に目をやり、陽子はくすくすと笑う。
「あなたも、花より団子なんだね」
「かの御仁と同じく、ね」
 陽子の揶揄を受けて、利広はおどけた応えを返す。紅の女王は懐かしげな笑みを浮かべ、大きく頷いた。そして、回廊に立つ女史に声をかけた。
「祥瓊、酒盃と酒肴を頼む」
「──畏まりまして」
 軽く拱手した女史が、一瞬利広に鋭い視線を投げた。ああ、あの男と同じ目をする。そう思い、利広は敢えて女史に明るい笑みを送った。程なく女史は手ぶらで戻ってきた。再び回廊にて女王を見つめる女史の意図を察し、利広はくすりと笑んだ。

 庭院の桜を愛でながら、久しぶりに陽子とゆっくり語らった。紅の女王は相変わらず鮮やかで美しい。いや、伴侶を喪ってからは、少し愁いを秘めた笑みを浮かべるようになり、優艶さを増していた。
 華奢な身体を抱きしめて、この腕に閉じこめてしまいたい。清麗に微笑む女王を見下ろし、そう思う己がいる。そんなことは簡単だ。隣り合って坐り、今にも触れそうな細い肩に、ただ、この腕を伸ばせばよい。無防備な女王は、それを拒まないだろう。けれど。

「──お待たせいたしました」
 酒盃と酒肴と甘味を持った麗しき女史が、氷のように冷たい声で、女王と利広の間に割って入った。女王はにっこり笑って、ありがとう、と礼を述べた。
 女史は、己の主と利広の、あまりにも近い距離を快く思っていないようだ。そして、無邪気な女王は、そんなことに全く頓着していない。蹙め面を見せる女史に、利広は楽しげに笑って言った。
「──祥瓊、美人が台無しだよ」
「戯言は結構でございます」
「戯言じゃないんだけどな」
 つんと顔を逸らす女王とは趣の違う美しさを持つ優雅な女史に、利広は朗らかな笑みを返した。側近と客人のやりとりに、輝かしき女王は苦笑を零す。
「祥瓊、お客さまに失礼じゃないか」
「客人として扱ってほしいなら、きちんと手続きを踏んでください」
 仮にも大国の太子が何なのですか、と女史は利広に苦言を呈した。まあまあ祥瓊、と女王は鷹揚にそれを宥める。いつもの光景に、利広は微笑を浮かべ、ゆったりと応えを返す。

「私はね、祥瓊……。旅人だからね」
 風漢を名乗っていた、かの御仁と同じく。

 言外に含んだ言葉を悟り、女史は顔を歪める。しかし、女王は満開の桜花のような美しい笑みを浮かべ、嬉しげに続けた。
「あなたは変わらないね」
「人はそう変わるものじゃないよ」
 軽く返す利広に、十六歳で時を止めた女王は、少女のような笑みを見せた。そんな陽子の笑みを引き出せて、利広は満足げに頷いた。
 やがて案件を告げに来た下官に促され、女王は済まなそうに席を立つ。利広は笑みを浮かべてその細い背を見送った。

 手酌で酒盃を満たし、桜に掲げて飲み干す。微風に枝を揺らす桜花の音が、かの御仁の笑い声のように聞こえ、利広は思わず笑みを漏らす。それから、ゆっくりと物問いたげな女史に視線を投げた。
「──何か不満かい?」
「何故……わざわざこの時期にいらしたのです?」
 女史は躊躇いがちに訊ねる。利広は黙して桜に笑みを向けた。真っ直ぐな主同様、正面から問いかける女史がいじらしく思えた。
「どうしてだと思う?」
「それが分かれば、わざわざ訊ねたりいたしません」
 そのつっけんどんな応対は、どこぞの冢宰と同じで、利広は思わず苦笑する。しかし、主でもあり、友でもある女王を思う祥瓊の気持ちは真摯なものだった。

「──桜と杯を交わしたくなっただけさ」

 応えを返し、利広は再び桜に酒盃を掲げる。それは、ある意味真実だった。それを察したらしい祥瓊は、もう何も問わなかった。頭を下げて退出する女史に、利広は桜を見上げたまま声をかけた。
「祥瓊、私は、旅人なんだよ」
 だから、陽子は利広に笑みを見せる。来ては去る気紛れな風だからこそ、陽子は肩の力を抜いて利広と語らうのだ。
 己の身や心を案ずる友人と臣がいつも優しく見守ることを、聡い女王は知っている。己が決して独りではないと、陽子はちゃんと分かっている。

 だから──君は、君たちは、何も心配することなんかないんだよ。

 女史がもう一度頭を下げる気配がした。聡明な祥瓊は、きっと気づいているのだろう。女王を中心に結ばれている絆は、確かなものだということを。そして──かの御仁も、それをよく知っていた。
 利広は桜を見上げて微笑んだ。

 風漢、私は、風漢を忘れない陽子が好きだよ。だから──風漢と一緒に、陽子を見守るよ。風漢と一緒に、ずっと陽子を愛するよ。

 幸せそうに寄り添う二人を見て、妬いたこともあった。けれど、王として並び立ち、更に寄り添おうとする二人が好きだった。
 人に問われても、恐らくそうとは認めないだろうが、利広はかの御仁が好きだった。かの御仁を一途に愛する景王陽子が好きだった。もう、かの御仁は雁にはいない。けれど、この国に──桜とともに息づくかの御仁を感じる。
 利広は何度も桜花に酒盃を掲げる。これからも、利広はここで、桜と酒を酌み交わすことだろう。また来たのか、と嘆息しながらも笑みを零すかの御仁の如く、桜は利広を温かく迎えてくれるだろう。

「──何を話していたの?」
「──内緒」
「あなたは、ほんとに変わらない」
 仕事を終えて戻った陽子が、苦笑とともに溜息を零した。変わらないものなど、本当は何ひとつない。だからこそ、あなたは変わらないね、と笑う陽子とともに、変わらず桜を見上げよう。
 酒盃を掲げるたびに、桜はさわさわと笑いを零す。かの御仁の声が聞こえたような気がした。

(陽子は手強いぞ、何しろ鈍いからな)

「大丈夫、私は気が長いんだよ」

「──?」
 小さく答えると、陽子が小首を傾げた。くすりと笑って見上げると、桜は楽しげに枝を揺らしていた。

2007.04.14.
 短編「風来」の利広視点でございます。同じく「来訪」連作に入る作品でございます。 本当はこちらを先に書いておりました。 けれど、風来坊の太子がなかなか本音を語ってくださらず、祥瓊に助けを求めてしまったのでした。
 気儘だけれど気の長い利広──私は実は大好きなのです。 お気に召していただけると嬉しいです。

2007.04.14. 速世未生 記
背景素材「幻想素材館Dream Fantasy」さま
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