幕 間
突然目の前に現れた来訪者は、唐突に去っていった。気紛れな一陣の風を見送り、陽子はほうと溜息をつく。まるで、月の魔法にかけられたような心地がした。
もう一度、輝く月を見やる。その光は、いつもより柔らかく、暖かく感じられた。おやすみ、と月に告げ、陽子は臥室に戻る。その夜は、夢も見ずにぐっすりと眠ることができた。
* * * * * *
騶虞に乗った若者が訪ねてきたら、丁重に通すように。来訪者を見送った翌日、景王陽子は禁門を守る門卒に、そう申しつけた。
突然露台から現れ、驚かせてくれたひと。でも、彼は恐らく同じ手を二度使ったりしない。今度は何をしてくれるだろう。心が少し浮き立っていた。
「何かよいことがおありですか?」
執務室に戻ると、冢宰浩瀚がそう問うて微笑した。相変わらず察しのよい側近に、陽子は苦笑を返す。
「何故そう思う?」
「何やら楽しそうなご様子でございますよ」
眉間の皺が取れましたね、と付け加え、浩瀚は涼しげに笑う。そんなにしかめっ面ばかり見せていたのか、と陽子は曖昧な笑みを浮かべた。
「──仕事が、忙しかったからな」
「とにかく、ようございました」
「心配かけて、済まなかった」
「いつも申し上げておりますが、主上を心配いたしますのも、私の役目でございますよ」
浩瀚はそう言ってまた微笑した。そうだったな、と陽子は忠実なる臣に笑みを向けた。
浩瀚が心配するのも無理はない。陽子はずっと、根を詰めて政務をこなしてきた。忙しくしなければ、考えてしまう。ふと気を抜くと、あの扉を突然開けて入ってくる笑顔を、思い浮かべてしまうのだから。その度に、鋭い痛みが胸を貫く。
それが分かっているのだろう。友も、臣も、誰も問わない。誰も触れない。あれからもう、何年も経っているというのに。
それでも、浩瀚はいつも見守ってくれている。それも仕事なのだ、と笑いながら。
「──ありがとう、浩瀚」
陽子はしみじみと感謝の礼を述べた。浩瀚は少し目を見張り、恭しく拱手した。そして、眩しげに陽子を見上げた。陽子は小首を傾げて問うた。
「浩瀚、どうした?」
「──いいえ、主上が笑ってくださると、私も嬉しくなるだけですよ」
さらりと答える浩瀚は涼しげに笑う。しかし、陽子を見つめる目は、安堵の光を浮かべていた。忠実なる臣に、相当心配をかけていたのだ、と改めて気づかされた。陽子はおどけた笑みを見せ、軽口を返した。
「それでは、眉間に皺を寄せる案件を持ってくるのは止めてほしいな」
「そういうわけにはまいりませんよ、ほら」
そう言うと、浩瀚は早速本日の案件を差し出した。陽子は肩を竦め、深々と溜息をつく。浩瀚は可笑しそうに肩を揺らした。
* * * * * *
それから数日後、取次ぎの下官が来訪者を告げにきた。騶虞を連れた若者が、景王に目通りを願っている、と。陽子は微笑し、内殿に席を設えて案内するよう命じた。浩瀚は首を傾げ、陽子に問う。
「お客さまですか、お珍しい」
「うん、久しぶりに会う、珍しいひと、なんだ」
「──左様でございますか」
風来坊の太子は、名を知られるのを嫌がるだろう。陽子はあえて利広の名前を出さずに済ませた。
「さて、あんまりお待たせするのも悪いから、とっとと片付けてしまおう」
「──畏まりまして」
恭しく応えを返しながら、浩瀚が少し目を細めたのを、陽子は気づかなかった。
2006.12.05.
「来訪」続編「幕間」をお届けいたしました。
いつの間にか「来訪」から4ヶ月も経っていますね……。
なんだか墓穴を掘りそうなので、これ以上語りません。
題名が全てを語っている、とだけ。
もう少し続きますが、この先はまた気長にお待ちくださいませ。
2006.12.05. 速世未生 記