来 訪
月が美しい夜だった。そういえば、そんなふうに思うのも久しぶりだ。今までずっと、忙しい日常に、没頭していたから。
月に惹かれて露台に出た。仕事に打ち込んでいたのは、月を避けていたから、かもしれない。陽子はふと口許を緩める。月を見て、苦い想いを感じることは、もう、なかった。
雲海に映る清けき月影。波間に揺らめくその光を、陽子はじっと見つめた。こんな晩には、あのひとがよく現れた。そう、あの月を背にして。
陽子は空を見上げた。月を背に、黒い影が姿を見せる。陽子は目を見張る。──そんなはずは、ない。胸が、じわり、と痛む。
あのひとは、もう、いないのに──。
見る間に近づいたその影は、陽子を認めたらしく、軽く片手を挙げた。あのひとと同じく騶虞を操る人影は、軽やかに露台に降り立った。そのまま爽やかに声をかけてくる。陽子の胸の痛みを、払拭するような明るい笑顔で。
「やあ、久しぶり」
「──珍しいところからご登場だね」
「──そろそろ、私が必要な頃かと思ってね」
相変わらず飄々と言ってのけるその男は、陽子に人懐こい笑みを向けた。陽子はくすくすと笑う。
「変わってないね、利広」
「人は、そんなに変わるものじゃないよ、陽子」
騶虞から降りて歩み寄りながら、利広は朗らかに笑う。神の領域を覗き見る身でありながら、そんなことを言うなんて。陽子は失笑を隠さない。
「──人じゃないくせに」
「──君だってそうだろう」
揶揄する陽子に軽く応えを返し、利広は微笑した。それから陽子の瞳をじっと見つめる。陽子は薄く笑い、目を閉じた。そして唇がそっと重なった。軽く触れて離れた唇が、小さく息をつく。
「──何故、そうも簡単に受け入れてしまうの? 危ないと言ったろう」
「私に触れてくるひとは、そういないんだよ。貴重なひとを拒めるわけがないじゃないか」
鮮やかな笑みを零す陽子とは逆に、利広は笑みを引いた。そして、陽子の目を覗きこみ、おもむろに問いかける。
「──好きじゃなくても?」
「あなただって、それは同じでしょう?」
陽子は無邪気に切り返す。こんな言葉の応酬も久しぶりだった。そんな陽子に利広は真面目な顔を向ける。
「私は、君が好きだよ」
「ありがとう。私も利広が好きだよ」
にっこり笑って応えを返す陽子に、利広は苦笑した。
「陽子、私は本気で言ってるんだよ」
熱を帯びた目を向けて陽子を抱き寄せた利広は、再び口づけを落とす。その熱く深い口づけに、陽子は素直に身を委ねた。次第に力が抜けていくその身体を利広が抱きとめる。陽子はほう、と甘い溜息を漏らす。
「──利広、こんなことしていて、あなたの恋人は怒らない?」
「酷いことを言う。私は君が好きなのに」
「あなたはいつも冗談が巧いからね」
「──陽子、恋敵が紅の女王だと知れば、どんな女でも裸足で逃げ出すよ」
軽口を叩く利広に、陽子は微笑する。このひとは、いつも陽子に賛辞を欠かさない。それが女性に対する礼儀と思っているのだろう。
「そんなことばかり言って」
「本気と冗談の区別もつかないの?」
呆れたようにぼやく利広に、陽子は少し顔を曇らせた。利広は再び苦笑する。
「──君は、愛のない口づけなど、知らないんだね。それはそうだよね。邪な者が、君に近づけるとは思えない。そんな奴は、君を見つめ返すことすら、できないだろうから」
「利広──?」
しみじみと語る利広に、陽子は目を見張る。そんな陽子に、利広は愛しむような笑みを向けた。
「──また、近いうちに会いに来るよ」
そう言って軽く唇を合わせ、利広は明るい笑みを見せた。そして、陽子が応えを返す間もなく、騶虞を駆っていってしまった。
一陣の風に、陽子は苦笑する。そういえば、風漢、と名乗っていたあのひとも言っていた。あの風来坊、と。懐かしいあのひとと同じ匂いのする、風のようなひと。
爽やかな風は、閉めきっていたために淀んでしまった空気を浄化してくれるのだろうか。そう思い、陽子はまた空を見上げる。見守る月が、微かに笑ったような気がした。
2006.08.07.
久しぶりの「夜想」──尚隆登遐後のお話でございます。御題其の三十二「思わぬ来訪者」の続きにあたります。桜が絡まないので、仕上げることができました。
このお話、もう少し続きます。恐らく、2〜3本連作になると思います。よろしくお付き合いくださいませ。
2006.08.07. 速世未生 記