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再 訪

 待ち人来る。

 そんな報せを受けて、景王陽子は大急ぎで仕事を終わらせた。そして、来訪者の待つ内殿の掌客の間へと急ぐ。人払いをして中に入ると、朗らかな笑顔が陽子を迎えた。
「やあ」
「利広、案外早かったね」
 陽子は満面の笑みで客人に応えを返す。先日、いきなり真夜中の露台に現れた風来坊の太子は、少し首を傾げて陽子を見つめた。
「そうかな?」
「うん。あなたは、気紛れだからね」
「──私を待っていてくれたんだ」
 利広は嬉しそうに破顔する。陽子は明るい笑みを返して頷いた。
「だって、あんなふうに、すぐ行ってしまうとは思わなかったから」
 突然現れて、唐突に去って行った一陣の風。陽子を驚かせ、懐かしませた旅人は、手にしていた茶杯を卓子に置き、不意に真顔を見せた。

「──あのまま、君といてもよかったの?」

「──? もう少し、話したかったのに」
「──それだけ?」
 じっと見つめられて、陽子は頬が染まるのを感じた。利広は、何を言いたいのだろう。陽子は困惑して俯く。そんな陽子に、利広は打って変わってにっこりと笑いかけた。
「今日は、旅の土産を持ってきたんだ。話もしたかったしね」
「土産って何?」
 高まりつつあった緊張が解れ、陽子はほっと息をつく。そして無邪気に訊ねた。それは後のお楽しみ、と利広は爽やかに笑い、おもむろに口を開いた。

「雁に行ってきたよ」

 慶では誰もが執務中に事務的にしか語らないことを、奏南国太子卓郎君利広はあっさりと口にする。その単刀直入さに景王陽子は思わず唇をほころばせた。
「──そう。どうだった?」
「君のほうがよく知っているかもしれないけれど」
 そう前置きをしつつも、太子は笑みを崩さない。陽子もまた薄く笑みを浮かべたまま応えを返した。
「ううん、私も直接行ってはいないから」
「王が宰輔を道連れに逝った割には荒れてなかったかな。仮朝が頑張っていたから、新王も案外楽だったのかもしれないね」
 笑みを湛えた太子は淡々と語る。このひとは国でもこうやって父王に報告するのだろうか。そう思いつつ、陽子は王の顔で頷いた。
「雁の官吏は、王の不在に慣れていたからね」
「雁の民は、隣国の女王に感謝していたよ」
 旅人の耳にも入るくらいにね、と利広はおどける。陽子は淡く笑んだ。
「──約束、していたから」
「約束?」
 利広は首を傾げる。利広が知らないのも無理はない。ずいぶん昔のことだ。けれど、陽子にとっては、昨日交わしたかのように鮮やかな、違えてはならない、大切な約束。
「そう……私が登極したばかりの頃、あのひとが助力してくれた。その恩はあのひとが斃れた時に返す、と約束していたんだ」
「──律儀だね」
「そうかな……?」
 利広に笑みを返しながら、そうしなければ生きることができなかった、と陽子は反芻する。伴侶を喪った痛みは、今なお陽子の胸を抉る。それでも、約束を違えたことのない伴侶と交わした約束を、陽子は守りたかった。伴侶がゆっくりと育み、愛した隣国をも──。
 できる限りの援助をした。じりじりと沈む雁を、陰ながら支え続けた。そして隣国が落ち着きを見せ始めた今、心穏やかに亡き伴侶のことを語ることができる己を知り、陽子は少し嬉しくなった。

 そう、誰も訊かない。誰も触れない。あれから幾年も経ったというのに。

 隣国の麒麟が育ち、黄旗が揚がり、長い時を経て新王が登極し、その治世が軌道に乗るくらい時が過ぎたというのに──。
 いや、ずっと心を張りつめて、誰も近づけなかったのは陽子のほうなのかもしれない。だからきっと、こんなふうに近づいてくれるひとの存在が、こんなにも嬉しいのだ。

 温かな視線を感じた。己の想いに沈みこんでいた陽子は、ふと顔を上げる。利広が、優しい瞳で見つめていた。慈愛に満ちたその貌に、陽子は思わず目を見張る。
「──利広?」
「何?」
 逆に訊き返し、利広はまた爽やかに笑う。陽子はそれ以上何も言えずに口を噤んだ。空の茶杯を持ち上げた利広は、笑いを含んだ声で陽子に所望した。
「──お茶のお代わりがほしいな」
「すぐに用意するよ」
 己で茶を淹れようと席を立ちかけた陽子を手で制し、利広は片目を瞑る。
「慶では、主人が客を置き去りにしてお茶を淹れるのかい?」
「ああ、それは失礼した」
 陽子は唇を緩め、今度は下官を呼ぶために席を立つ。すると、風来坊の太子はまたも注文をつけた。

「君のお友達を紹介しておくれよ。きっと、長い付き合いになると思うから」

「──え?」
 陽子は意味が分からずに首を傾げる。利広は楽しげに笑って言った。
「言ったろう、そろそろ私が必要な頃だって」
 だから君の大事な人たちにご挨拶しなくちゃね、と続け、利広は人の悪い貌をする。意図がまるで分からない。陽子は戸惑いながら己の思いを口にした。
「あなたは身分を明かしたくないのかと思っていたのだけれど……」
「ご明察。けれど、それはさっきまでの話」
 利広はゆっくりと立ち上がり、陽子に歩み寄る。そして、陽子の耳にそっと囁いた。

「身分を明かして正々堂々と君を口説くよ」

 それが必然だからね、と大国奏の太子は朗らかに笑った。陽子はただただ目を見張る。どう反応してよいか判断がつかなかった。ややしばらくして、陽子は苦笑気味に利広を見上げた。
「あなたは……相変わらず人を驚かせるのが巧い」
「驚かせているつもりないんだけどな」
 お茶のお代わりがほしいだけだよ、と利広はまた笑う。陽子は立ち上がったわけを思い出し、扉の外に控える者に女史と女御を呼ぶよう申しつけた。
「びっくりして忘れていたよ」
 笑い含みにそう言うと、利広は大笑いした。やはり冗談だったのだ、と陽子も小さく笑う。利広はそれを見透かすような一言を告げた。

「陽子、私は本気だよ」

 それから、風来坊の太子は気儘に金波宮を訪れるようになった。そしてその度に景王陽子の側近たちと賑やかしい攻防を繰り広げ、宮の主を楽しませるのだった。


2009.03.07.
 小品「来訪」及び小品「幕間」続編の短編「再訪」をお届けいたしました。 ようやくこのお話を纏めることができて感無量でございます。
 この後は「風来」「風想」「夜桜」と続きます。 よろしければそちらもご覧くださいませ。 お気に召していただけると嬉しく思います。

2009.03.08. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館Dream Fantasy」さま
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