桜 人
薄紅の花びらが、ゆっくりと舞い降りる。時が、桜とともに行き過ぎる。それは、長いような、短いような、不思議な感覚を齎す。そう、舞い散る花びらを見なければ、時が止まったかのように思える、静かな空間。
利広は隣に坐る女王をそっと眺める。桜になってしまったかのように動かない女王を。利広は、これも立派な花見だな、と唇を緩める。そんなとき。
「──王さまの耳は、ロバの耳……」
利広は微かな呟きを聞きとがめた。まるで呪文のような不思議な言葉。己の気配を抑えていた利広は、思わず視線で意味を訊ねる。女王は現に戻り、苦笑を浮かべて応えを返した。
「蓬莱の童話だよ。秘密は、隠そうとしてしても、結局知られてしまう、というお話」
面白そうだね、と利広は軽く笑う。蓬莱の話など、胎果の女王の口から聞いたのは初めてかもしれない。さて、此度は何を聞かせてくれるのだろう。利広はそう思い、おもむろに問うた。
「で、君は、いったいどんな秘密を、話してしまいたいの?」
女王は瞠目し、利広を凝視した。利広は微笑する。麗しくも無邪気な女王は、己の貌が、声が、どれだけ胸の内を語っているのか、ちっとも分かっていないのだ。
「──何故そう思う?」
利広はその質問には答えず、女王の朱唇を軽く啄ばんだ。聞いているのは利広なのだ。そのまま笑みを湛えて返答を待つ。女王は小さく溜息をつき、再び苦笑を浮かべて利広を見上げた。
「──何も問わずに聞いてくれる?」
翠の宝玉が愁いを帯びる。誰かに話したい。けれど、誰にも分かってもらえない。そんな色が翠玉の瞳に見え隠れしていた。
いいよ、と短く返し、利広は女王を引き寄せた。女王は素直に利広に身を預ける。そして、利広の肩に頭を凭せ掛け、おもむろに語りだした。
それは、蓬莱の昔話。戦に引き裂かれた男と女の悲しい物語だった。淡々と語り終えて、女王は遠くを見つめる。そして、吐息のように微かな声で呟いた。
「あのひとの子供を産みたかった。あのひとの面影を宿す子がほしかった。──あのひとを喪ったとき、心からそう思った。もちろん、そんなことは無理だと知ってる。それでも、たまに夢を見る……」
切ない貌をして、胎果の女は夢に見た情景を語る。利広には思い浮かべることができない、婚姻した蓬莱の男女の日常風景を。
「──こんなこと、あのひとにも言ったことがない……」
小さく呟いて、女王は深い溜息をついた。確かに誰にも言えるはずがない。よく分かったよ、と利広は静かに応えを返す。女王は目を見張り、何が、と反射的に問うた。利広は率直に感想を述べる。
「君の言っていることは半分も分からなかったけれど……。君が思っていることは、よく分かった」
女王は訝しげに利広を見つめる。利広に理解できたのは、女王が年をとって生涯を終えるまで、愛した男と一緒に暮らしたかったのだ、ということだけ。でも、それで充分だった。目で問う女王に、利広は笑みを向けて答えた。
「君にとって、かの御仁に代わる者は、いないってこと」
陽子は喪われた伴侶を忘れない。
それは、利広にとって、分かりすぎるくらいに分かっている現実。聞いた女王は黙して顔を逸らす。利広はそっと女王を抱き寄せ、宥めるように頭を撫でた。
「──陽子。責めているわけじゃないんだよ」
比翼の鳥、連理の枝と言われるほど仲睦まじい二人だった。どんなに時が過ぎようと、そう簡単に忘れられるはずもない。それなのに、女王は済まなそうに問う。
「──私は、あなたに、酷いことをしているだろう……?」
「君は誠実すぎるね。君には私が必要だし、私は君の傍にいたいんだ。気にすることはない」
利広はくすりと笑い、胸の内を率直に語った。生真面目な女王は、それでも首を横に振る。
「そこまでしてもらう理由はないよ……」
「私にはあるんだよ」
躊躇いがちに続けられた言葉を遮る。利広は強い視線を女王に向け、優しく微笑んだ。
「私は、君が好きなんだから。──いつも言っていると思うけれど」
いつも告げている言葉を繰り返し、利広は笑った。そう、好きだとずっと言い続けている。その告白を女王が信じていないことも知っている。けれど。
女王は、誰にも話さずにいたことを、利広に語った。今ならば、その心に利広の想いが届くかもしれない。言葉を尽くす時が来たのだ。利広はこの好機を逃す気はなかった。
「君が、どんなにかの御仁を愛していたか、私はよく知ってる。今でも忘れられないことも、ね。それでも、私は君が好きなんだ」
「──利広」
女王は目を見張る。その視線を捉え、利広は笑みを送る。目を逸らすことなど許さない。聞きたいのは、秘められた本心だけ。女王は小さく嘆息した。
「──私は、余計なことばかり言ってしまうのに?」
「君が話したいことなら、私は全て聞きたいよ。そして、君が話したくないことも」
決して叶うことのない願いを語った女王。その切ない想いは、独りで抱えるには辛すぎる。気儘に吹いてはいなくなってしまう風にだから告げられる本音ならば、全て吐き出してしまえ。
女王は利広から目を逸らす。聡明な女王は、利広が放つ次の一言を予期している。利広は笑い含みに問うた。
「君は、どうしたいの?」
その瞬間、時が止まった。俯く女王は、彫像のように動かない。利広はそのままじっと女王を見つめた。
待つことには慣れている。もう、遠大な時をそれだけのために費やした。今更、焦れたりしない。
やがて、女王は静かに桜を見上げた。その視線は散りゆく花びらを通り越し、喪われた伴侶を見つめているかのようだった。
薄紅の花びらが、静かに舞っている。繰り返し、繰り返し、女王の隣でその様を見続けてきた。そして、桜とともに物想いに沈む女王を見守ってきた。いつの頃からか、武断の女王は、隣に利広がいることを忘れるくらい、無防備な姿を曝すようになっていた。いつも遠巻きに監視していた側近たちが、今や姿を見せなくなったのは、そのせいかもしれない。
桜と語っていた女王の顔が、ゆっくりと利広に向けられた。深い色を湛えた宝玉のような瞳が、利広を覗きこむ。女王は唇を緩め、おもむろに話し出した。
「──考えたことがなかったから、やっぱり分からない。王で在り続けることかと思ったけれど……。それは私の義務であって、やりたいことじゃない」
それは誠実な女王らしい答えで、利広は微笑して頷いた。これからゆっくり考えるよ、と言って女王は爽やかに笑う。咲き初めた桜花のように、年相応の少女のように。利広はただ、うん、と頷くことしかできなかった。女王は不意に真顔を見せた。
「あなたは……いつも、誰も訊かないことを訊くね」
「そうかい?」
利広はにっこりと笑みを返す。無論、そうしている。それはきっと、女王の臣ではない利広にしかできないことだから。女王は利広を真っ直ぐに見つめた。
「──私には、あなたが必要みたいだ」
ずっと、待ち続けていた、その言葉。ずっとずっと注いできた想いが愛しい女に届くこの瞬間を、何度夢に見たことだろう──。
「やっと分かってくれたようだね」
噛みしめるように、ゆっくりとそう返す。女王は眩しい笑みを見せて答えた。
「うん。ずいぶん時間がかかってしまったけれど」
「気づいてくれれば、それでいいんだ」
利広は掛け値なしの本音を素直に告げた。巧く笑みを返せただろうか。少し不安になった。女王は瞳を翳らせて、そっと利広に身を寄せる。肩に響く、小さな声。
「……ごめんなさい」
何を謝るのだろう。利広は己の心の赴くままにしていただけなのに。思うままに応えを返す。
「謝る必要はないよ。私は、君を抱きたいだけの狡い男なんだから……」
利広は人の悪い顔を見せ、華奢な身体を抱き寄せる。そして熱い口づけを落とした。女王は微笑んで利広を受け入れる。かつて冷たかったその朱唇は、瑞々しく温かかった。けれど──。
「それでも君は泣かないんだね」
哀しいときにも、淡い笑みを見せるのみ。それが国を背負う者の宿命と知っていた。だからこそ、その涙を受けとめたいのに。愛しい女は薄く笑み、利広に問うた。
「──あなたは、いつでも私を抱けたでしょう?」
君はちゃんと気づいていたんだね。
胸で呟いて、利広は笑みを返す。そして細い身体を抱く腕に力を籠めた。
雲海から直接訪れたあの時から、利広はずっと女王の出方を窺っていた。愛を告げて、熱く口づけたあの時から、利広が望めば女王はその身を差しだすだろうと分かっていた。だから、敢えてそれを望まなかった。
「──温かい」
自ら身を利広に預け、小さく呟く女王の瞳を覗きこむ。遠くを見つめていた翠の宝玉が、真っ直ぐに利広を見つめ返す。それだけで笑みが零れた。
「──ごめんね」
陽子が済まなそうに囁く。謝る必要などないのに。利広はただ待っていただけ。そう、愛しい女が振り向いてくれるまで、傍で待ち続けていただけなのだ。しかも、それは、女王の側近が心配していたとおりの邪な理由だったのだから。
「私は、狡い男なんだよ」
陽子の耳許に、利広はもう一度囁いた。そして想いを籠めて口づける。
身も心も預けてくれるこの時をずっと待っていたのだ、と。
不思議そうに首を傾げる愛しい女を見つめ、利広は会心の笑みを返したのだった。
2009.05.13.
短編「桜人」をお送りいたしました。
先に出した「桜語」の利広視点でございます。
書かずに済まそうかと思ったのですが、利広が語りたがったので仕上げてみました。
永い永い歳月を待つことに費やした利広に敬意を表したいです。
あまり需要のない連作ではございますが、お気に召していただけると嬉しく思います。
2009.05.13. 速世未生 記