桜 君
月が綺麗な夜、利広は独り雲海の上を飛ぶ。胸に紅の女王の泣きそうな笑顔を抱きつつ。行先は、利広の報告を待つ者の所。高岫山を越える頃には、白々と夜が明けかけていた。
「彼女に会って来たよ」
月は払暁の空に呑まれ、輝かしい陽が昇ろうとしていた。斃れた王の陵墓に戻り、利広は笑みを湛えて話しかける。
「──相変わらず綺麗だった」
いや、前よりも美しくなったかもしれない。伴侶を喪失した女王は、かつて見せることなかった憂愁の美を具えていた。その姿は、雨に打たれる桜花のように儚かった。
「全部、風漢のせいだ」
杯に酒を注ぎつつそう呟いた。ひとつを墓標の前に供え、酒盃を掲げる。そして、何度となく疑問に思ったことを声に出して問うた。
「ねえ、風漢……どうして独りで逝ったの?」
(──陽子を、連れて逝ってもよかったのか?)
唇を歪めて笑う風漢の顔が胸に蘇る。そうじゃなくて、と利広はあの日と同じ悪態をついた。きっと、何度訊ねても同様にはぐらかされるのだろう。それでも問うてみたいのだ。
稀代の名君を呑みこんだ深淵とはどんなものだったのか。
考え得ることは悉く回避している、と語っていたあの王は、胸の内にどんな暗闇を秘めていたのか。利広はそれを知りたかった。そして──。
かの王の伴侶であった麗しき女王は、どうして独りこの世に残ったのか。淡く笑み、利広の熱い想いを冷たい朱唇で受け入れた女は、いったい何を思って玉座に留まったのか。
(陽子は、王だからな)
共に残る道はないと断じたかつての王は軽く笑う。利広は首を横に振った。彼女が王だからこそ、訊きたいのだ。
(玉座に留まらねば、王は命を喪うではないか)
ごく簡単に言って、風漢は更に楽しげに笑う。だから、そうではないのだ。利広は苛立たしげに首を振る。王の抱える闇が、そこまで単純明快なはずはない。風漢は唇を歪めて失笑した。
(そんなに知りたいのなら、陽子に直接訊いてみよ)
利広は薄く笑う。素直に答えが返ってくるわけはない。風漢からも、恐らくは陽子からも。利広はその理由すらも知っている。
それはきっと、利広が王ではないから。
それでも、いつか、確かめたい。そう思いつつ、利広はまた酒杯を掲げる。既にこの世から解放された稀代の名君は、いつもの如く人の悪い貌をしていた。
* * * * * *
今度は雲海の下から金波宮に向かった。路門ではなく禁門を訪ねたのは、女王が手配をしているだろう、との確信があってのことだった。
はたして禁門を護る門卒は利広の騎獣が騶虞であることを確かめただけで門を通してくれた。それほど待たされることもなく城内へと案内される。
内殿の掌客の間にて丁重なもてなしを受け、利広は宮の主を待つ。さして時間を置かず、女王が姿を現した。利広は片手を挙げて女王に笑みを送った。
「利広、案外早かったね」
女王は開口一番にそう言った。利広が首を傾げると、あなたは気紛れだからね、と笑う。
「──私を待っていてくれたんだ」
利広は笑みを浮かべて素直な気持ちを伝えた。女王は明るく笑い、首肯した。
「だって、あんなふうに、すぐ行ってしまうとは思わなかったから」
聞いて利広は黙する。不躾に露台から現れた利広が、あの場に留まると、本気で思っているのだろうか。利広が女王と直接対面したことは、まだ数回しかないというのに。しかも、そのとき利広が何をしたか、忘れてしまったのだろうか。利広は手にしていた茶杯を卓子に置き、真顔で問うた。
「──あのまま、君といてもよかったの?」
「──? もう少し、話したかったのに」
女王は不思議そうに小首を傾げる。雲海の上から訪うことの意味を、分かっているのだろうか。理解しているのなら、そんな答えを返すわけはない。それでも利広は重ねて問うた。
「──それだけ?」
じっと見つめると、女王は困惑して俯いた。無邪気な女王にこれ以上問うても無駄なこと。利広はにっこりと笑って話題を変えた。女王は安堵に満ちた息をつき、無邪気に訊ねる。それは後のお楽しみ、と答え、利広はおもむろに本題を語った。
「雁に行ってきたよ」
女王は息を呑む。が、すぐに王の顔をして笑い、雁の様子を訊ねた。雁は慶の隣国だ。君のほうがよく知っているかもしれないけれど、と前置きをし、利広は女王の様子を窺う。女王は薄く笑みを浮かべたまま応えを返した。
「ううん、私も直接行ってはいないから」
「王が宰輔を道連れに逝った割には荒れてなかったかな。仮朝が頑張っていたから、新王も案外楽だったのかもしれないね」
利広は笑みを湛え、雁で見たものを淡々と語る。女王は施政者の顔で頷いた。
「雁の官吏は、王の不在に慣れていたからね」
その一言は、かの御仁の稀代の名君たる所以を物語っていた。王がいなくても官吏は慌てない。そんな国を造り上げて逝ってしまったかの御仁を思い、利広は視線を落とす。
「雁の民は、隣国の女王に感謝していたよ。旅人の耳にも入るくらいにね」
利広の沈黙は一瞬だった。利広は心を読まれぬようにおどけてみせる。すると、女王は淡く笑み、静かに応えを返した。
「──約束、していたから」
「約束?」
利広は首を傾げる。女王は愛しむような貌をし、懐かしげに語った。
「そう……私が登極したばかりの頃、あのひとが助力してくれた。その恩はあのひとが斃れた時に返す、と約束していたんだ」
利広が知りたかったことを、女王はあっさりと明かしてくれた。女王が独り残ったわけが、まさか登極当時まで遡るとは。女王の伴侶の人の悪い笑みが胸に浮かび、利広は小さく嘆息した。
「──律儀だね」
「そうかな……?」
女王はまた淡く笑み、そのまま物想いに沈みこんだ。女王をじっと見つめながら、利広もまた物想う。利広が初めて女王に会ったのも、登極したばかりの頃だった、と。それは素晴らしい僥倖だった。
天の配剤を思わせるその出会い。そして、その次にめぐり会った場所は、女王の伴侶が治める国の首都だった。数度の邂逅は、偶然だとは思えない。
風漢、天意などその程度のものだ、と言っていたくせに──。
国を荒らすことなく、ただ宰輔だけを連れて逝ってしまった王。隣国の女王に後を託して。伴侶である女王との約束が、雁だけでなく、慶をも守った。
その布石を打ったのは、いったい誰なのか──。
己の深謀遠慮に利広は苦笑する。数多の王朝が興っては斃れていく。雁も慶も、そして奏も、そのひとつに過ぎない。利広は、王朝をまたひとつ看取っただけなのだ。それ以上の意味など、考える必要もない。
独りこの世に残り、約束を果たした女王を見つめる。己の国だけではなく、王を喪った隣国をも守った景王陽子を。隣国は新王の下に落ち着き始め、後ろを見ずに走り続けてきた女王は、足を止めた。
物想う女王は麗しい。が、それは危うい美しさだ。当面の目標に達した女王は、きっと己の暗闇を見つめる。王が気を抜く瞬間を待ちうける昏い闇が導くままに。だからこそ。
今の女王には、臣でない者が必要だ。
対等の立場だった伴侶に代わり得る者が。風漢がそこまで考えていたかどうかは分からない。風漢が余計なことをしなくても、利広はそう判断しただろう。
やはり、君には私が必要だね、陽子。
胸で呟き、利広は笑む。視線を感じたのか、女王は顔を上げる。そして翠玉の瞳を見開いて利広の名を呼んだ。
利広は笑みとともに訊き返す。女王は開きかけた口を閉じた。その戸惑う瞳に、利広は決意を新たにする。奏南国の太子であることを明かし、女王の隣に立つ権利を得よう、と。
空になった茶杯を手に取り、利広は女王に茶をもう一杯所望した。己で茶を淹れようと立ち上がりかけた女王を制止し、利広は片目を瞑る。
「慶では、主人が客を置き去りにしてお茶を淹れるのかい?」
「ああ、それは失礼した」
女王は桜がほころぶように笑う。今度は下官を呼ぶつもりのようだ。利広は笑みを湛え、女王に更に注文をつけた。
「君のお友達を紹介しておくれよ。きっと、長い付き合いになると思うから」
「──え?」
女王は意味が分からないというように小首を傾げる。茶を淹れてもらうのならば、女王の側近がよい。伴侶を喪った女王に寄り添うためには、女王の友たちに認めてもらう必要があるだろうから。利広は笑い含みに続けた。
「言ったろう、そろそろ私が必要な頃だって。だから君の大事な人たちにご挨拶しなくちゃね」
「あなたは身分を明かしたくないのかと思っていたのだけれど……」
女王は困惑したようにそう言った。利広は破顔する。無邪気で男女の機微に疎い女王は、こんなにも鋭い一面を持つのだ。そう、利広はずっと女王の出方を窺っていた。そして、己の立ち位置を明確にすることを決めたのだ。
「ご明察。けれど、それはさっきまでの話」
にっこりと笑って肯定し、利広はゆっくりと立ち上がる。そのまま女王に歩み寄り、耳許にそっと囁いた。
「身分を明かして正々堂々と君を口説くよ。それが必然だからね」
女王は目を見張る。困ったように何度か瞬き、そのまま動きを止めた。利広は笑みを湛えたままその様を見守った。
「あなたは……相変わらず人を驚かせるのが巧い」
やがて女王は苦笑とともにそう言った。利広の告白をどう受けとめてよいか分からないようだ。政治的な判断は直ぐに下す女王の戸惑う姿は、利広を大いに楽しませた。
「驚かせているつもりないんだけどな。お茶のお代わりがほしいだけだよ」
軽く答え、利広はまた笑う。女王は、ああ、と呟いて、扉の外に控える者に側近を呼ぶよう申しつけた。利広の傍に戻ってきた女王は笑い含みに言った。
「びっくりして忘れていたよ」
老練な女王を年相応に見せるその一言に、利広は大笑いした。すると、女王は安心したようにくすりと笑う。やはり冗談だったのだ、という心の声が聞こえ、利広はにやりと笑む。それから、念押しの一言を送った。
「陽子、私は本気だよ」
息を呑む女王にゆっくりと手を伸ばす。利広の手が女王の頬に触れたとき、扉が開いた。
「──主上!」
そう叫びながら、まろぶように駆けてくる二人の娘。利広は小さく笑って手を引く。血相を変える側近たちに笑みを向け、女王は茶を淹れるよう頼んだ。目と目を見交わした娘たちは、ひとりが茶を淹れ、もうひとりはさりげなく利広と女王の間に割って入った。
「陽子、お友達を紹介してくれない?」
利広は吹き出しそうな内心を押し隠し、爽やかな笑みを浮かべて女王を促す。女王は楽しげに笑ってそれに答えた。
「女史祥瓊と女御鈴。私の古い友達だよ。祥瓊、鈴、こちらは奏南国の太子であられる卓郎君利広」
主の紹介に拱手した二人の娘は利広の肩書を聞いて目を見張る。そして、ますますきつい目で利広を睨めつけた。
いくら言葉を尽くしても分かってくれない女王よりも、この二人のほうがよっぽど利広の意図を理解してくれる。そう思い、利広は女王を守る鋭い側近に満面の笑みを送った。
それから、深窓の緋桜を訪ねる利広は、いつも女王の友たちの蹙め面に迎えられるようになった。無邪気な桜の君は、いつも不思議そうに、そして楽しそうにその様を眺めるのだった。
2009.05.08.
短編「桜君」をお届けいたしました。
短編「花月」の続編で、短編「再訪」の利広視点になります。
「再訪」と並行して書いていた作品でございました。
桜が咲くまでに仕上げたいなと思っていたら、もう桜が散りかけになってしまいました。
この後は「風来」「風想」「夜桜」と続き、「桜語」に至ります。
よろしければ併せてお楽しみくださいませ。
あまり需要はないかと思いますが、お気に召していただけると嬉しいです。
2009.05.08. 速世未生 記