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時 至(ときいたる)

 薄紅色の花びらが静かに舞い降る。桜の幹に背をつけて坐り、ふたりでそれを眺めていた。おもむろに視線を移す。左に寄り添う身体は温かく、微風に踊る花弁を見つめる双眸は柔らかい。その翠の瞳が、時折こちらを見つめて微笑む。それだけで唇がほころんだ。
 会話はなくても構わない。寧ろ、言葉などいらないと思う。愛しい女と心通じあえた利広は、穏やかに流れる時を心から楽しんでいた。やがて。
 凭れかかる身体が重くなる。微かな寝息が聞こえた。女王は、利広に身を預けたまま転寝している。利広はゆっくりと唇を緩め、力の抜けた小さな右手に己の手を重ねた。そんなとき。

「──!」
 静謐な空気が不意に揺らいだ。酒肴を乗せた盆を持って戻ってきた女史が、庭院を見下ろすいつもの回廊で声なき悲鳴を上げる。紫紺の目を大きく見張り、盆を取り落としそうになった祥瓊は、辛うじてその場に踏み止まった。利広は動きを止めた女史に笑みを向け、唇の前に人差し指を立てる。ついでに片目を瞑ってみせると、女史は眉間に皺を寄せつつも小さく頷いた。
 利広はそっと左に視線を移す。寝息を立てている女王が目を覚ますことはなかった。その安眠を守りたいのは女史も同じだろう。そう思いながら視線を戻すと、祥瓊は静かに涙を零していた。唇を微かに持ち上げて、女王の友はその場に立ち尽くす。利広はそんな祥瓊に穏やかな笑みを返した。

 女王の伴侶が登遐してから幾年が過ぎたことだろう。国主を喪った隣国を、景王陽子は献身的に支え続けた。それは、登極当時、親身に援助してくれた恩に報いるため。そして、己の伴侶が愛し育んだ国を守るためでもあった。
 雁州国に新王が立ち、王朝が落ち着きを見せた頃、利広は慶を訪れた。伴侶を喪ってからずっと、脇目も振らずに走り続けていた女王が足を止める時を、利広はずっと待っていたのだ。
 無論、ふらりと現れて女王に接近する利広を歓迎する者はなかった。利広はそれを当然と受けとめていた。しかし、桜と共に己の世界に閉じこもる女王に寄り添える者は、利広しかいない。事実、女王はいつも微笑んで利広を迎えたのだ。

(──主上は桜と語っておられます)

 だから邪魔をするな、と言外に含ませて、常に険しい貌を見せた女史。そんな祥瓊を筆頭に、庭院を見下ろせる回廊からは、いつも誰かが見張っていた。入れ替わり立ち替わり現れる女王の側近たち。時にそこには宰輔や冢宰さえも姿を見せたのだ。しかし、利広は笑みを以てそれを退けてきた。女王が、利広を拒むことなかったがために。
 金波宮を訪れる度に他愛のない話をした。女王は旅の土産話や各地の昔話に耳を傾けた。そして何よりも、風漢と名乗って放浪を繰り返した己の伴侶の話を楽しんだ。永い永い年月を、利広は女王とそんな風に過ごしてきた。

 いつしか女王は肩が触れるくらい近い距離にいることを忘れる程、利広に気を許していた。利広は桜を眺める女王を隣で見つめ続けた。そうしてある日、失言とも言える呟きを聞き咎めた利広に、女王は誰にも聞かせたことのない話を語ったのだ。それは、利広がずっと待ち続けた、言葉を尽くす時を知らせるものであった。

(──私には、あなたが必要みたいだ)

 女王は利広の瞳を真っ直ぐに見つめてそう言った。初めて会った時を思い出させる、その澄んだ双眸。桜だけを追っていた女王の翠の宝玉は、はっきりと利広を映していた。
 いくら言葉にしても決して伝わらなかった想いが、漸く愛しい女の胸に届いた。微かな音でも目を覚ます武断の女王が、今この時、利広に身を預けて眠っている。利広にとって、それは至福であった。

 聡い女史は、すぐに事情を呑みこんだのだろう。頬を伝う涙を拭うことなく庭院に降りてきた。恭しく頭を垂れると酒肴を乗せた盆を利広の傍に置く。眠れる主を愛おしげに見つめ、女王の友は再び利広に深く頭を下げた。そして、静かに退っていった。
 心尽くしの酒肴を有り難く賞味しつつ、利広は桜を見上げる。さわさわと枝を揺らす音が笑い声のように聞こえた。永い時を女王と共に過ごした桜も祝福してくれているように思え、利広は唇を緩める。

「風漢……やっと受け入れてもらえたよ」

 密やかな呟きは、桜のさやぎに掻き消されていく。そしてそれは、女王の目覚めを促すものとなった。微かに身動いで、女王は瞼を開く。美しい翠の宝玉が現れる様を、利広は笑みを湛えて見守った。
 朦朧とした瞳が己の手に重ねられた手を見やる。女王は不思議そうにその手を視線で辿った。手から腕へと、腕から首へと、首から顔へと。そうして翠の瞳は利広の目を覗きこむ。利広は笑い含みに声をかけた。
「おはよう。よく眠れた?」
 無論、今は朝ではない。女王は目を瞬かせ、軽く首を振る。転寝にしては深く眠っていた。そのせいか、女王は今の状況を掴めていないようだった。
「──利広。私……眠ってた?」
「うん、気持ち良さそうに。だから一人で飲んでいたよ」
 酒肴の乗った盆を示し、利広はにっこりと笑う。女王は訝しげに首を傾げた。それはそうだろう。ふたりで桜を眺めていた時には何もなかったのだから。
「さっき祥瓊が置いていってくれたよ。どうやらお許しが出たようだね」
 種明かしをすると、女王はついと庭院を見下ろす回廊に視線を移した。そこには誰もいない。物陰に隠れている気配すらない。女王は少しだけ唇を緩めると、感慨深げな貌をして花弁を散らす桜を見上げた。
 こんなときの女王は、桜に宿る伴侶と語り合っている。そう、この桜は女王の伴侶の贈り物。永い時を女王と共に過ごし、女王を見守り続けているのだ。その枝を揺する風の音がかの御仁の応えのように聞こえ、利広は笑みを浮かべた。やがて。
 女王はゆっくりと利広に視線を戻した。利広はただ微笑のみを返す。女王は安堵の笑みを見せ、再び利広の肩に頭を乗せた。左手で細い肩を抱き寄せる。そうしてまた散りゆく花びらを静かに眺めた。

(ほんとうに気の長い奴だ)
 桜は枝を揺すって笑う。その度に薄紅の花弁がひらりと舞った。そう、利広は気が長い。この美しき緋桜が永い眠りから目覚めるのを待ち続けられるほどに。
(──何故、これほどまでに待った?)
 桜の問いかけに、利広は苦笑を零す。今更そんなことを訊かれる謂われはない。

 女王は常に王で在ることを己に課し、気を抜くことがなかった。それを知り、尚且つ女王の臣ではない利広は、王であれ、と女王に求めることがない。女王はそんな利広に感謝していた。そして、己の価値を知らぬ女王は、返すものが何もないと恐縮してさえいた。
 利広が望めば、女王はいつでも己が身を差し出したに違いない。それが分かっているからこそ、利広は敢えて女王を求めなかった。無造作な肯定など欲しいとは思わなかった。

 そんなことを桜に宿るかの御仁に告げる気はない。だから、利広は愛しい女にそっと問うた。

「今夜は君と一緒に眠らせてくれる?」

 この一言を告げる日を、どれほど夢に見ただろう。再会してからは、いつも、どんなときでも利広を拒まなかった女王。しかし、いくらきつく抱きしめても、熱く口づけても、その眼は利広を通り越し、遥か彼方を見つめていたのだ。

 逡巡なく頷くならば、潔く引き下がろう。

 そんな想いを秘めた言葉を耳にして、女王は束の間息を呑む。利広はおもむろに視線を戻した。女王は、大きく目を見張っていた。その滑らかな頬が、徐々に桜色に染まっていく。しかし、女王はじっと見つめる利広から目を逸らすことなかった。咲き初めた桜花の羞じらうような微笑を浮かべ、景王陽子は小さく頷いた。

 時季を待っていた。時期を捉え、時機を待ち続けた。そうして、時は至る。

「──陽子」

 名を呼ぶと、女王はそっと身を寄せてくる。利広はその華奢な身体を抱きしめた。この刹那の喜びを伝えたい。悠久の時を超えてきた利広は、心からそう思う。そして、想いを籠めて愛しい女に甘く口づけたのだった。

2011.05.23.
 短編「時至」をお届けいたしました。 短編「桜語」及び短編「桜人」の続編で、小品「緋桜と春風と」の 利広視点を含みます。
 気の長い利広のお話は、ゆっくりゆっくり進んでまいります。 最初に小品「来訪」を書いたのは、もう5年も前のことになります。 気が長いにも程がございますね〜。
 あまり需要はないかと思いますが、お気に召していただけると嬉しく思います。

2011.05.23. 速世未生 記
背景素材「幻想素材館Dream Fantasy」さま
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