夜 桜
さわさわと音がする。おいで、おいで、と声がする。引き寄せられるように、陽子は暗い庭院に降りた。朧な春の月に照らされて、満開の桜が静かに佇んでいた。
陽の光の中で見るのとは違うどこか妖艶な花は、風にそよぎながらさやさやと笑う。微風にそよそよと揺れる枝が、よく来たな、と囁く。愛しいひとは、桜に宿る。陽子は桜の幹に頭をつけた。胸に蘇る、桜を見つめる大きな背。
ひらりひらりと舞い散る花を、静かに眺めるひと。夜闇に白く浮かび上がる桜花は、ざわざわと音を立て、己に魅入る者を呼ぶ。晴れやかな笑みを見せ、恋しいひとは舞い踊る艶麗な花に応える。そして、そのまま桜とともに消えていく──。
(逝かないで……)
思わずかけた声を、闇が呑みこんだ。朧な月も、咲き誇る桜も、愛するひとも、見る間に形を失っていく。陽子はなす術もなく、ただただそれを見つめるのみ。
大きな背は、呆気なく漆黒の闇に融け去った。手を伸ばしても、もう届かない。声をかけても、もう聞こえない。
分かっているのに、何故、今尚、追い縋るのか──。
陽子は暗闇に坐りこみ、両手で顔を覆った。
やがて──肩に触れる手を感じた。そして、そっと背と膝裏に回される腕の確かな感触。陽子は抱き上げる誰かの首に腕を絡め、子供のようにしがみつく。くすりと笑う気配がした。
ゆっくりと歩き出したそのひとは、陽子を牀榻へと運ぶ。牀に降ろされたとき、離れていこうとする腕を、陽子は思わず引いた。
独りにしないで。もう、私を置いていかないで。
想いを籠めて握った手の震えが、伝わってしまったかもしれない。小さく息をつき、隣に滑りこむ温もり。それを確かめるために、もう一度首に手を回した。腰に絡められる腕を感じ、陽子はほっと安堵した。
頭を撫でる手が、頬に触れる。そして、温かな唇が、頬に、唇に口づけを落とす。それから、耳許で、おやすみ、と囁く微かな吐息。小さく頷いた陽子は、抱き寄せる腕を枕にし、眠りに就いた。
大丈夫。ここにいるよ。愛しているよ。
あやすような優しい声が、ずっと聞こえていた。温かな手が、髪を、背を撫でていた。暗闇の中、確かな温もりが傍にあった。久しぶりにゆっくり眠ったような気がした。
* * * * * *
目覚めると、陽子は独りだった。隣にあった温もりは既にない。伸ばした手は冷たい牀に触れるばかりだった。
あれは、夢? 桜は、夢をも奪うのだろうか──。
深い溜息をつき、陽子は起き上がる。身支度を整え、朝食の席へと向かった。
「おはよう、陽子」
爽やかに声をかけられて、陽子は思わず目を見張る。思い出した。突然現れた賓客と語らうために、堂室でその訪れを待っていたのだった。そして、どうやら待ちぼうけに終わったらしい。陽子は眉根を寄せて気儘な客人を軽く睨めつけた。
「──利広。待っていたのに」
「行ったけれど、少し遅かったみたいだね。君は眠っていたから、大人しく引き上げたよ」
気紛れな旅人はくすりと笑った。給仕をしていた鈴が手を止めて、物凄い目で睨みつけている。そんな遅い時間に女王の堂室を訪ねるとは無礼です、と祥瓊が目を吊り上げた。風来坊の太子は大きく笑った。
「だから、すぐに引き上げたんだってば」
手を振りながらそう言って、利広は片目を瞑る。陽子は、はっとした。あれは、利広だったのだ。子供のように甘える陽子を、眠るまで慰めてくれた温もりは、このひとだったのだ。陽子は楽しげな利広に笑みを返す。
「──ありがとう」
「いきなり、何?」
「来てくれて、ありがとう」
機嫌の悪い二人の友を宥めつつ、陽子は風来坊の太子に心から礼を述べた。利広は朗らかに笑って頷いた。
「言ったろう、そろそろ私が必要な頃だって」
「そんな必要は、ありません!」
声を揃える女史と女御に利広はまた大笑いする。陽子は熱くなる胸を抑え、小さく笑いを零した。
(そろそろ、私が必要な頃だと思ってね)
かつて真夜中の露台に現れた利広は、そう言って笑ったのだ。それから、忘れた頃に顔を見せに来る。いつもいつも、陽子が挫けそうになるのを見計らったように。そして、今年初めて桜の季節にやってきた。
花見酒を持参する利広は、桜に宿る伴侶と語る陽子の心を癒した。そして、懐かしげに昔話を聞かせてくれるのだ。陽子よりも古くから伴侶を知る、唯一のひと。けれど、何故そうしてくれるのかも、何故いつも陽子の気持ちを察してくれるのかも分からなかった。
「でも……どうして?」
「いつも言っていると思うけど」
「わざわざ口にしなくてもよろしいです!」
またもや鈴と祥瓊が血相を変えて声を揃えた。二人とも、どうしてそんなに怒るんだろう。陽子は小首を傾げる。利広は額に手を当てて笑いを噛み殺していた。
「──君って、ほんとに面白い」
言って利広は目尻に滲んだ涙を拭う。それから、分かってないのは陽子だけだよね、と陽子の友たちに零した。同意を求められた鈴と祥瓊はそっぽを向く。陽子はますます首を傾げた。
「君といると、退屈しなくていいよ」
「どっかの誰かみたいなことを言わないでほしいな」
口を尖らせて言い返すと、子供みたいだね、膨らんだ頬をつつかれた。爽やかな笑顔は、喪われた伴侶の人の悪い笑みとは似ても似つかない。けれど、あのひとと同じ匂いのする気儘な風は、陽子の心を解く。陽子はしみじみと礼を述べた。
「──ほんとうに、ありがとう」
「お礼よりも、ご褒美がほしいな」
風来坊の太子の軽口に、女史と女御はまた怒声を上げる。苦笑をしつつ、陽子は利広に問うた。主上、と祥瓊が咎めてはいたが。
「何がほしいの?」
「──そうだなぁ。夜桜見物で我慢してあげる」
ただし二人きりでだよ、と人の悪い笑みを見せる気儘な賓客に、いけません、と祥瓊が叫んだ。陽子は思わず声を上げて笑った。鈴と祥瓊が目を丸くして顔を見合わせ、それから泣きそうな笑顔を見せた。
「二人とも、どうしたの?」
「仕方ないですね」
「くれぐれも不遜な真似はなさらないでくださいね」
女御と女史は陽子を無視し、楽しげに笑う太子に顔を蹙めて諫言した。無論そうするよ、と軽く返す客人に恭しく拱手して、二人は下がっていった。
「──いったい、どうしちゃったの?」
「お許しが出たみたいだから、今晩は眠らずに花見に付き合っておくれよ」
呆れて首を捻る陽子に構わずに、利広は陽子の頬に口づけて、耳許でそっと囁いた。ほんのりと頬を染めた陽子に、もちろん不埒な真似はしないよ、と太子は朗らかな笑みを見せた。
2007.04.26.
短編「夜桜」をお送りいたしました。
短編「風来」及び短編「風想」の続きになると思います。
「来訪」連作は桜が絡まない予定だったのですが、今回、随分利広が出張っておりますね(笑)。
なんだか、痛いお話から逃げているような気もいたします。
その痛い想いを知っていて尚も明るい利広に、私も癒されております。
皆さまにもお気に召していただけると嬉しいです。
2007.04.26. 速世未生 記