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桜 雨さくらあめ

 ──それは、いつか、必ず訪れる現実だ、と知っていた。そんな夢を見ては、泣いていた。そんな日が来なければいい、と思っていた。
 そしてその日──心静かだった。満開の桜が風に舞い散るたびに、懐かしい記憶が舞い戻った。永い年月をともに過ごした。それだけに、陽子は気づいていた。あのひとの心に降り積もる昏い闇が、どうしようもないところまできていることに──。

(この桜のように、潔く散りたいものだ)

 かつて、あのひとはそう呟いた。そのときには、私くらい笑って見送ろう。そう応えを返すと、知らず涙が溢れた。無理をするな、と愛しむような目を向けて、あのひとはただ微笑んだ。その淡い笑みは、この日が来ることを予感していたのだろうか。
 いつか、桜が恋しいあのひとを連れ去ってしまうのだろう。そんな不安を、風に舞う薄紅色の花びらに見ていた。それでも、あのひとがこよなく愛するこの花を厭うことはできなかった。桜は、胎果である陽子の心に根ざす花でもあったから。そしてあれから、数え切れぬほどの時が経っていた。

* * *    * * *

 舞い踊る桜吹雪を浴びながら、背中に感じる気配が口を開くのを待った。いつも怜悧で冷静な己の側近が、これほどまでに躊躇う理由はただひとつ。息を吸う音が微かに聞こえた。
「──主上! 鳳が……」
「──末声だね」
 いたたまれずに、浩瀚の奏上を遮った。とうとう、この日が来てしまった。あのひとは、逝ってしまった。そのまま、舞い散る薄紅の花びらに手を伸ばす。少し肩が震えた。忠実な臣の気遣わしげな様子に、ゆっくりと振り返る。
「……大丈夫、──私は泣いたりしないよ。いつか、必ず訪れる、現実、だったのだから……」
 そう、あのひとが先か、陽子が先か、それは分からなかった。けれど、これが、いつか必ず訪れる現実。黙して見つめる浩瀚の視線を避けるように、淡い色の春の空を見上げた。風が吹くたび舞い落ちる桜の花を、掌で受けとめる。
 己の悲しみに沈んではいけない。この薄紅色の花びらとともに、心からの祝福を送ろう。あのひとは、ようやく全てのものから、解き放たれたのだから。
「──あのひとは、やっと、解放されたんだよ。私くらい、笑顔で送ってあげなくちゃね……」
「──主上……」
 そう言ってまた黙す忠実な冢宰に、笑みを送る。臣には決して分からないだろう、王が背負う責の意味など。王は天に捧げられし贄。天にその身と命を縛られ、故に心をも次第に蝕まれる。降り積もる昏い闇は、王のみが知る狂気。
 ──いつか、その闇に呑まれる日が訪れる。若しくは、何もかもを振り捨てたくなる日が。いつか訪れるその日まで、王の孤独な戦いは続く──。
「民にとっては、迷惑な話なんだろうけど……。でも、雁は官吏がしっかりしているから、きっと大丈夫。 要請が来たらすぐに援助できるよう、手配しておいてくれ」
 忠実なる冢宰は恭しく拱手し、踵を返す。その背中をしばし見つめ、陽子はふと浩瀚を呼び止めた。何故だろう。よく分からない感情だった。それでも陽子は、振り返る浩瀚に、静かに告げた。
「国中に──桜を、植えてくれないか」
「──畏まりまして」
 浩瀚は再び頭を下げ、今度こそ庭院を出ていった。その背を黙して見送り、また桜を見上げる。花の盛りに潔く散りゆく花びらを。

* * *    * * *

 あのひとを引き止めていたのは己である、と陽子知っていた。あのひとは、もうとっくにこの世に飽いていた。それでも、陽子のために留まり続けていた。その暗闇に翻弄されても、虐げられても、あのひとに惹かれる心は変わらなかった。しかしそれは、陽子の我儘であったのかもしれない。
 陽子を見つめるあのひとの双眸は、相反する想いに引き裂かれつつあった。その想いを──愛も、憎しみすらも、全て受けとめたかった。そうすることが、愛する者を追いつめるとも知らずに。永の年月をともに過ごしながら、それすらも気づかずにいた。
 舞い落ちる桜花を見つめながら、陽子は薄く笑む。永遠など、何処にもない。このまま時が止まればいい、と何度思ったろう。その刹那が積み重なり、確かな想い出となっていた。
 それなのに、変わらぬこの想いがあのひとを追いつめていたとは。愛するが故に、その想いが大切なひとを傷つけるなど──。これほど永く生きてすら初めて知ることだった。
 別れは既に済んでいる。常になく饒舌な唇がそれを告げていた。初めて聴いた愛の言葉は、胸に切なく響いた。最後の逢瀬に、涙は溢れて止まらなかった。謝罪も別離の言葉もなく、ただ、愛の告白だけを残して、あのひとは逝ってしまった。
 見上げる陽子の頭に肩に、桜は静かに薄紅の花びらを散らし続ける。まるで泣けない陽子の代わりに、涙を流しているようだった。
 そして、桜は全てを知っている。告げられなかったあのひとの想いも、隠された陽子の願いも。常世では普通なのだろうか。心を通わせ、身体を重ねても、実を結ぶものがない。

 ──あのひとを偲ぶよすががほしい。

 桜に想いを託そう。陽子は花びらを降らす桜を見上げて微笑する。国中に植えられる桜が健やかに育つよう、力を尽くして国を守ろう。あのひとの愛したこの桜が、誇らしげに花を咲かせるまで。そして──桜は、あのひとの代わりに、陽子を見守ってくれるだろう。
 桜吹雪に包まれて、陽子は先刻浩瀚を呼び止めたわけに気づく。──ありがとう、と告げたかったのだ。浩瀚だけではない。景麒も、鈴も、祥瓊も、他の者たちも、皆が陽子を見守ってくれている。振り返れば見つめる瞳があることを、陽子は知っている。
 堪らずに、桜の幹を抱きしめる。尚隆なおたか、あなたもそれを知っていた。胸に思い浮かぶのは、愛を告げた、最後の笑顔。

 ──私は大丈夫。あなたは、いつも、ここにいる。幸せを、ありがとう。あなたに会えて、よかった。でも──いつか、あなたの傍に行くから。そのときは微笑んで迎えてほしいな。

 春風に散らされる桜花を、いつまでも見つめた。その向こうに見える、淡い色の空の彼方にいるひとを、想いながら。

2006.04.10.
 「十二国桜祭り」参加作品第四弾でございます。
 「追憶」を最初に書き始めたとき、語り手は陽子でした。 淡々と語る陽子の哀しみに、私が耐えられず、浩瀚に語ってもらったのが「追憶」です。 あれから1ヶ月が過ぎ、やっと「陽子語り」に向き合うことができました。
 同じものをまた……と思われるかもしれません。ご勘弁くださいませ!  これを書かなければ陽子とともに先に進めないのです……。 最後の言い訳まで読んでいただいて、ありがとうございました。
 そして、縷紅さま。 書き散らした拙いものを四作も受け取ってくださって、ありがとうございます。 これに懲りずまた誘ってくださいませ。
 「十二国桜祭り」跡地は、 こちらからどうぞ! (奏月さまは「山の端の月」と名称変更されました。2006.5.11.追記)

2006.04.10. 速世未生 記
背景画像「硝子細工の森」さま
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