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藤谷明日香さま「20001打記念リクエスト」

桜 夢さくらゆめ

「──主上」
 満開の桜の花びらが降りしきる。その薄紅の花吹雪の中に、鮮やかな紅の女王が佇んでいた。振り返る主は花がほころぶように微笑む。その、あまりに晴れやかな笑顔に、浩瀚は胸打たれ、思わず目を逸らした。
 かつて主はその鮮やかな微笑を、伴侶であるかの方に向けていた。かの方が登遐してから、主の清麗な笑みは、どこか翳りを秘めていた。しかし今、主が見せるのは、その愁いが払拭された、鮮麗な笑み。
 嫌な予感がした。次第に心臓が早鐘を打つ。その朱唇から零される言葉を聞きたくない。恭しく拱手した浩瀚は、目を瞑り、耳を塞ぎたい気持ちを堪えた。
「浩瀚、長い間私を支えてくれて、ありがとう。これからも、この国を頼む。──私がいなくなっても」
「主上……」

 やはり──。

 かつて、かの方が逝ってしまったとき、浩瀚は予感した。いつか桜がこの方をも連れ去ってしまうのだろう、と。その切ない予感が、今、現実となる──。
 浩瀚は二の句が継げなかった。頭を上げることもできなかった。黙して動かない浩瀚を見て、主は小さく息をついた。
「お前は、やはり何も問わないんだな……」

 問わないのではない、問えないのだ──。

 しかし、浩瀚は答えることができなかった。主の声があまりにも間近に聞こえ、浩瀚は顔を上げた。主の麗しき微笑が、目の前にあった。目を見張る浩瀚の肩に、主はそっと頭をつけた。
「主上?」
「──済まない。私はお前に頼るばかりで、何も返すことができなかった……」
「そんなことはございません!」
 思わずそう叫び、浩瀚は主をきつく抱きしめた。初めて触れる華奢な身体は、思ったとおり柔らかくしなやかだった。そして鮮やかな紅の髪は芳しい香りがした。
「──私は主上にお仕えできて、幸せでございます」
「──浩瀚」
 主を抱きしめる浩瀚の腕はわななき、声は震えていた。主はそんな浩瀚の背に手を回し、そっと撫でる。
「──王であることを辞めてしまった私には、もう何も残されてはいない。お前に……報いることができない」
 主は自嘲めいた笑いを零した。その過去形を使った微かな囁き。もう、主を引き止めることはできないのだ。浩瀚は意を決して大きく息を吸う。
「そう仰るならば──御身をお与えください。私は……それを生きる縁といたしましょう」
 主を抱きしめたまま、浩瀚は決然と告げる。主は小さな笑い声を立てる。
「──こんな、心も魂もない、抜け殻のような身体で構わないのか?」
「──構いません」
「いいだろう……」
 浩瀚は微かな応えを返す主を上向かせ、その朱唇にそっと己の唇を重ねた。そして、香しく瑞々しい桜花のような感触を味わった。薄紅の花びらは春風に散らされ、いつまでも降りしきっていた。

* * *    * * *

 主は夜半に窓からそっと現れた。出奔を得意とする主は、悪戯っぽい笑みを見せる。
「──こんな悪さも久しぶりだ」
「そのように楽しげな主上も久しぶりでございます」
「そうか?」
 浩瀚は微笑し、小首を傾げる主を抱きしめた。素直に身を預ける主に触れる腕が震える。

 今宵が、最初で最後の逢瀬、なのだ──。

 腕の中で、主が密やかに問うた。
「本当に、いいのか──?」
「あなたこそ……よろしいのですか?」
「私に触れる男は、呆れるほど少ないんだ。お前は貴重な存在なんだぞ」
 主は浩瀚を見上げ、くすくすと笑う。浩瀚は、偉大なる王だったかの方と、今尚さすらう高貴なる旅人を思い出す。紅の光を纏う鮮烈な女王に、躊躇なく触れることができた男を。この輝ける翠玉の瞳を、臆することなく見つめ返すことができた男を。
 そして、昏い深淵を隠す翠の瞳を、浩瀚はじっと見つめる。何もかもを吸いこんでしまうような力を持つその瞳を、主はそっと閉じた。
 その朱唇に口づけを落とし、華奢な身体を牀に横たえた。唇を離すと、主は甘い吐息を漏らした。月光の中に、女の顔をした女王がいた。その優艶さに、浩瀚は声もなく見とれた。そして、そのしなやかな肢体をきつく抱きしめ、己の全てで確かめた。
 どれほどこの方を恋うただろう。どれほど眠れぬ夜を過ごしただろう。そして今、腕の中にずっと恋焦がれていた女がいる。どんな女を抱いても感じていた、果てしのない渇きを癒す女が。
 いつも端然と座し、毅然と前を見つめる孤高の女王。その華奢な背を見上げ、守ってきた。その細い肩に国を乗せる女王を支えてきた。想いを胸の奥に秘め、忠実なる臣として。
 隣国の王をひたむきに見つめる主が、浩瀚を男として見ることは無論なかった。主はいつも痛々しいほど王で在ろうとし、実際王で在り続けた。最愛の伴侶を喪ったときでさえ、涙を見せぬほどに。
 主が涙を見せたのは、ただ一度きり。隣国の王との秘めた恋が公に認められた、あの慶賀のときのみ。

(──みな、私の願いを叶えてくれて、ありがとう……)

 感謝の言葉とともに流されたあの清麗な涙を、浩瀚はきっと忘れることはないだろう。何も望まぬ女王の、唯一の願い。その想いが成就して尚、臣下に礼を述べる誠実さに、浩瀚は胸打たれた。
 主が幸せであれば、それでよかった。浩瀚は女王の右腕として、最も傍近くで主を見つめることができた。それで充分だと思っていた。
 しかし、秘めた恋心はいつも胸の深奥で熾火のように静かに燃えていた。臣下の前で、決して女を感じさせない女王の、女の顔を見てみたいと思い続けた。その華奢な身体を抱きしめ、口づけを交わしたいと願った。そんな叶うはずのない夢を見ていた。
 まだ、夢を見ているのかもしれない。恋しい女を抱きながら、浩瀚はそう思った。絹糸のようにつややかな紅の髪も、滑らかな小麦色の肌も、ただの幻かもしれない。翠玉の瞳が湛える切ない色も、朱唇から漏れるあえかな喘ぎ声も、すぐに消えてしまうかもしれない。
 月光の中、仄かに浮かび上がる麗しい顔。愛撫に応えるしなやかな身体。その全てが愛おしい。その全てを、心と身体に灼きつけたい──。浩瀚は無我夢中で恋しい女を抱きしめた。

 情熱が果てた後も、浩瀚は主の身体を離さなかった。腕の中の主に、浩瀚は躊躇いがちに問うた。
「──何故、私を……受け入れたのです?」
「何故そんなことを訊く?」
 主は目を上げ、物憂げに問い返す。浩瀚は黙して主を見つめ返した。主は少し苦笑した。
「──私も訊きたいな。男は皆、そう訊きたがるものなのか? ──理由が必要なのか?」
「必要です。私は……ずっとあなたをお慕いしておりましたから」
「──浩瀚」
 浩瀚の告白に、主は翠の瞳を見開く。心底驚いているふうの主に、浩瀚は自嘲の笑みを向ける。
「お疑いになりますか? それとも……お厭いになりますか?」
「──いや、ちょっと驚いただけだ。私を女として見る男は、そういないからな」
 主は悪戯っぽい笑みを見せてそう言った。浩瀚は首を振る。主はそう言うが、誰もが孤高の女王を想う。そして、高嶺の花の如く見上げるのみなのだ。
「──そんなことはございません。あなたはご自分をお分かりでないだけです」
「そうか? ──私は女王だぞ。それを意識しない者はいない」
「無論でございます。ですから……」
 勁い目を向ける主に口づけを落とす。唇に、頬に、耳朶に。そして微かに震える首筋に唇を這わす。主は細く喘いだ。浩瀚は低く呟く。
「──あなたが、この腕の中にいることが、信じられない」
「大袈裟だな……」
 主は浩瀚の背に華奢な腕を回し、くすりと笑った。いつも勁い色を湛える瞳が、少し翳る。
「──私を、買い被っているよ。景王でない私は、未だただの小娘にすぎない」
「あなたは……小娘であるあなたを、人に見せたりしないでしょう?」
「見たくないだろう、そんなもの。皆が必要なのは、景王である私、なのだから」
 浩瀚の問いに即答した主は、自嘲の笑みを零した。かつて感じた暁の光は影を潜め、そこにいるのは黄昏の女王であった。
「本当のあなたを、見てみたい」
「──もう、抜け殻だと言ったろう」
 主は浩瀚を抱きしめ、淡い笑みを浮かべた。瞳の翠は透き通り、遠い彼方を見やる。
「心も、魂も、少しずつ失くしていった。そして、何も残ってはいないんだ。これ以上留まるのは無理だ、と景麒も、納得してくれた……」
 満開の桜が、風に吹かれて散っていくように、少しずつ、少しずつ。地に降り積もった花びらは、風に散らされ四散する。主の勁い心も、そんなふうに蝕まれたのだろうか──。そして主は不意に真摯な眼をして浩瀚を見つめる。愛しい女は、女王の顔をしていた。
「──景麒を、置いていく。あれは頭が固いから、失道もしていないのに私とともに逝くことはできない……」
「もう何も──仰らないでください、今は……」
「──国を頼む、浩瀚。景麒とともに、この国を守ってくれ……」
 まるで遺言のような言葉を、これ以上聞きたくはなかった。浩瀚は主の朱唇を荒々しく塞ぐ。そして再び主を熱く求めた。浩瀚の情熱に身を任せながら、主は小さく呟いた。

「只人のように……年を取りながら生きてみたかったな……」

 それは、神である王には、決して許されぬ願いだった。そして、普段の主ならば、絶対に口に出さないであろう、叶うことのない夢。
「──その願い、いつか私が叶えてみせましょう……」
「ありがとう、浩瀚……」
 主は咲き初めた花のように淡く微笑んだ。それは、久しぶりに見た、十六歳の少女の笑みだった。

* * *    * * *

 目覚めたとき、胸にしっかりと抱いていたはずの恋しい女はいなかった。腕に残る温もりを思い返し、浩瀚は溜息をつく。桜が齎した、一夜限りの儚い夢と分かっていた。
 身支度を整え、窓を開ける。残月は白々とした空に呑まれ、姿を消していた。そして、盛りを過ぎて散り始めた桜が静かに立っていた。かの方が登遐したとき、主は国じゅうに桜を植えさせた。どこにいても、この花は目に入る。
 舞い散る花びらの中に、鮮やかな紅を捜す。長い年月に渡り、見守り続けた麗しき紅の輝きを。舞い踊る一片の花に、数多の懐かしい記憶が舞い戻る。
 桜が咲くたびに、そして桜が散るたびに、浩瀚は思い出すのだろう。桜を愛した佳人を。桜が齎した、甘く、切なく、儚い夢を。

2006.05.17.
 お待たせいたしました。 藤谷明日香さまによる「20001打記念リクエスト」でございます。
 御題はずばり「浩陽」。
 「浩陽をと、言いたいところですが……」という遠慮深いお言葉に「萌え」ました。 丁度「浩陽未満」を書いていたところで、その気はあったのです。 (実はこの頃「惑乱」を書いておりました/笑 2007.04.18.追記)
 今回の「桜夢」は「追憶」から派生した書下ろしでございます。 桜が咲いてから、ほぼ一気書きしました。
 お気に召していただければ幸いです。

2006.05.17. 速世未生 記
背景画像「硝子細工の森」さま
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