追 憶
春の柔らかな陽光に映える、咲き初めし桜花。ああ、またこの季節が巡りきたのだな、とひとりごちる。庭院に立つ冢宰浩瀚は、慶東国に春を告げる薄紅色の花を見上げ、笑みを見せた。
その咲き誇る桜が春風に吹き散らされる頃、浩瀚は再び庭院に赴く。舞い散る花びらの中に、懐かしい姿を探して──。
* * * * * *
満開の桜が春の嵐に散らされる。舞い踊る薄紅色の花びらの中に、紅の髪を靡かせる華奢な背中が見えた。醸しだされる静謐な雰囲気を破るのには、かなりの勇気が必要だった。しばし黙し、やがて意を決したように、浩瀚は主に声をかける。
「──主上! 鳳が……」
「──末声だね」
報せをお終いまで聞くことなくそう言うと、主は舞い落ちる桜の花びらに手を伸ばす。何時、とも、何処、とも、何故、とも訊ねることはない。細い肩が少し震えたように見えた。しかし、振り向いたその瞳には、涙はなかった。麗しき女王は、ふわりと微笑んだ。
「……大丈夫、──私は泣いたりしないよ。いつか、必ず訪れる、現実、だったのだから……」
輝かしい翠の瞳は、つと淡い春色の空を見上げる。もう、二度とは会えぬ伴侶を送るかのように。そのまま小さな掌をかざし、風が吹くたびに舞い落ちる花びらを受けとめる。笑みさえ浮かべるその姿には、辛い現実を受け入れる痛々しさは見られなかった。
──この方は、今このときも、王なのだ。比翼の鳥、連理の枝と謳われた伴侶を喪っても、尚。
片羽を削がれた痛ましさも、枝を折られた労しさも見せぬ主は、ただ王としてそこに在った。黙して見つめる臣に、伴侶を亡くした女王は神々しい笑みを向ける。
「──あのひとは、やっと、解放されたんだよ。私くらい、笑顔で送ってあげなくちゃね……」
「──主上……」
「民にとっては、迷惑な話なんだろうけど……。でも、雁は官吏がしっかりしているから、きっと大丈夫。要請が来たらすぐに援助できるよう、手配しておいてくれ」
揺るぎない笑みを浮かべ、主はそう命じる。恭しく拱手を返し、浩瀚はその場を辞した。散りゆく桜の如く潔い女王の前で、これ以上平静を保つことはできそうになかった。
「──浩瀚」
「はい」
主に呼びとめられ、浩瀚は振り返る。主はふわりと笑みを浮かべ、静かに言った。
「国中に──桜を、植えてくれないか?」
「──畏まりまして」
主はそのまま桜の花を浴びていた。降りしきる花びらは、泣くことを許されぬ女王の気高い涙のように見えた。主と同じく胎果で、同じくこの花をこよなく愛した、隣国の王を惜しむ涙のように。
端然と顔を上げ、主は王の道を歩むのだろう。今までも、これからも変わりなく。しかし、やっと解放されたのだ、と笑顔で伴侶を送る主こそが、解放されたいのだ。国に、民に縛られることから──。国の頂点に立つ栄華の裏に潜む暗闇を背負う女王。その闇と戦い続けることを、臣は強いている。
それは己も同じだった。だからこそ、主が、桜の如く潔く散りたいと願うときには、快く笑みをもって送りたい。そう思いつつ、浩瀚の心は千々に乱れる。主を喪って己は生きていけるのだろうか、と。
春風は降り積もった薄紅色の花びらを掬っては撒き散らす。淡い春の夢を齎す桜花は、いつか麗しき女王を連れ去ってしまうのだろう。そんな切ない予感に、浩瀚は胸が締めつけられた。
* * * * * *
胎果の女王が愛する桜の花は、慶東国のあちこちで見られるようになった。小さな苗木だったその枝が、高く広く腕を伸ばし、誇らしげに花をつけるようになった頃。
麗しき女王は、咲き誇る桜の下で艶やかに笑う。国を頼む、と。降りしきる淡紅色の花びらに包まれ、そのまま天に昇っていきそうな儚き姿だった。
私の主はあなただけです、主上──。
その言葉を、浩瀚は呑みこんだ。ただ、黙して頭を下げた。愛するひとの最期の命に逆らうことなど、できるはずもない。
──かの方を追って、麗しき女王は逝ってしまった。女王の登遐とともに、多くの臣が朝廷を去っていった。そして──。
* * * * * *
「──浩瀚? どうした?」
「いえ、桜吹雪が綺麗ですね……」
「ああ、桜は慶の花だな」
庭院に佇む浩瀚に、新しき主はそう言って微笑んだ。かのひとが育てた花は、慶の民の心に根付いていた。
その薄紅の花びらが舞い散る数だけ、懐かしい記憶が舞い戻る。美しい横顔、闊達な物言い、そして、ただ一度きり見せた清麗な涙。永い年月、すぐ傍で見つめ続けてきた数々の想い出が──。
降りしきる桜吹雪に、胸が痛む。この世の何処にも、あの麗しき方はいないのだ──と。見上げると、薄紅の花びらの向こうに淡い色の空が見えた。この空の彼方に、あの方はいるのだろうか。一足先に逝ってしまった、かの方とともに。
私は、あなたの願いどおり、新しい主とともにあなたの愛したこの国を守ります。どうか、ご心配召されるな。
春風に舞い踊る花びらに、浩瀚はそっと囁く。頭に、肩に降り積もる薄紅の桜。そして優しく頬を撫でる暖かな春の風。
──国を見捨てる愚かな王のために、命を粗末にするな。
あのとき聞こえなかった主の声が、今、やっと聞こえたような気がした。
2006.03.08.
「末声」──想像しただけで泣きそうになってしまうくらい、私にとっては禁忌でした。今でも二人がどんなふうに末声を迎えるのか、想像することはできません。
それなのに、ケツメイシの「さくら」が頭の中をぐるぐる回りはじめ……。気がついたら、独り残された陽子のお話を書いていました。
「夢幻夜話」の一連のお話の先に末声の予定はありません。なので、このお話は枝分かれした単発のお話と考えていただきたいです。
最後に、お祭り参加を呼びかけてくださった「奏月」の縷紅さま、ありがとうございました。お祭り大好きな私です。またお声をかけてくださいませ。
「十二国桜祭り」跡地は、
こちらからどうぞ!
(奏月さまは「山の端の月」と名称変更されました。2006.05.11.追記)
2006.03.15. 速世未生 記