「献上品」 「月影余話」 「玄関」
花梨さま「6万打記念リクエスト」

驚 愕

* * *  1  * * *

「──今、何と仰った?」

 我知らず訊き返した。隣国の王は片眉を上げ、意外そうに問う。

「聞こえなかったか?」

 では、耳を疑うような報せは、事実なのだ。

 そう思うと、景麒の目の前は、次第に暗くなっていく。己の僕を救出しに現れた新たな主に、心より忠誠を誓ったばかりだというのに──。

(──主上……)
 景麒は己の主に視線を移した。翠の眼を見開いて固唾を呑む新しい主の向こうに、憂愁の涙を湛えた前の主が見えた。

(──景麒。わたくしの……景麒……)

 病み衰えた腕を伸ばし、景麒に縋って泣いた、前国主景王舒覚。景麒は、己の主を救うことができなかった。半身に恋着し、狂気に走る主を、玉座に引き止めることができなかった。

 そんな思いを、もう、二度としたくはない。

 慶東国宰輔景麒は、稀代の名君と称えられる雁州国国主延王尚隆に視線を戻す。そして、感情の籠もらない応えを返した。
「──前例が、ございません」
「そうだったかな」
 冷たく断じる景麒を嘲るかのように、驚愕の報せを齎した隣国の王は、飄々とそう言った。景麒は延王尚隆に鋭い視線を浴びせる。事の重大さを茶化すようなその答えが、景麒の怒りに火を点けた。

「偉大なる延王ともあろう御方が、隣国の王を伴侶になさるとは……! あなたは──慶を、波乱続きで、ようやく王が見つかったばかりのこの慶を、滅ぼすおつもりなのですか!」

「──景王の玉座奪還に助力した俺に、それを訊くのか?」
 怒りに震える景麒を、延王尚隆は歯牙にもかけない。精悍なその顔は、余裕の笑みさえ浮かべていた。

「それに、前例はないが、天の咎めもないぞ」

 王でありながら、天をそのように軽く扱うとは。

 この男は、いったい何を考えているのか。景麒は眉間に力を籠めて返す。
「天の咎めは、これからやもしれません!」
「それはないな」
 主の伴侶と自任する大胆な男は、不敵に笑って即答する。景麒は息を呑んだ。
「何故、断言できるのです!」
 詰め寄る景麒に、延王尚隆は皮肉な笑みを返す。そして、更なる驚愕を景麒に齎した。

「──天啓だからだ」

「なんですって……」
 景麒の蒼白な顔から、更に血の気が引いた。

 なんと傲岸不遜なことを。

 五百年玉座に君臨する王とは、ここまで傲慢になれるのだろうか。景麒は震える声で問い質した。
「天啓、と……本気で仰るのですか」
「無論、本気だ」
「何故……王でありながら、そのように天を軽んずるのですか!」
 景麒は拳が白くなるほど握りしめ、皮肉な笑みを湛える延王を睨めつける。
「軽んじているわけではない。俺は天啓と思った。麒麟の感じる天啓も、そのようなものなのだろう?」
 どこまでも飄々と答える大国の王に、景麒は返す言葉を失う。麒麟が感じる王気と、己の恋情を同列に論じる男を、許すことはできない。

 これほどまでに怒りを感じたことが、今まであっただろうか──。

「──延王!」
 景麒がそう叫んだときだった。見るに見かねたのか、延麒六太が割って入った。景麒は、開きかけた口を閉じる。
「尚隆、もっと穏便に話せないのか。景麒も、もう少し落ち着いてくれ」
 しかし、その延麒も此度のことを認めているような口振りだ。無論、麒麟は己の主たる王に従う者だから、仕方のないことかもしれない。
 が、慶の国主たる景王の恋など、景麒には到底認められることではなかった。恋が、前国主を失道に至らしめたのだから。そして、隣国の王は、それをよく知っていたはずなのだ。それなのに──。
 景麒は、傲慢な隣国の王から、ゆっくりと己の新しき主に目を移す。輝かしく暖かな陽光の王気を纏って景麒を救出しに現れた女王は、蓬莱で見つけたときと同様に、呆然と立ち尽くしていた。

 ──あなたは、慶に遣わされた新たな神ではないのか。荒廃した慶を救うはずの王ではないのか。

 視線で問う景麒に、主が答えることはなかった。黙して語らぬ女王は、ただ俯くのみだった。
 景麒は深い溜息をつく。唇を噛んで俯く主には、女王の威厳はなかった。主は、叱られた小娘のように、ただただ項垂れていた。その姿は、景麒に蓬莱での出来事を思い起こさせた。

* * *  2  * * *

「御前を離れず忠誠を誓うと誓約する」

 はるばる虚海を超えて迎えに来た半身を、頑なに拒絶する愚かしい娘。その小さな足を捕まえて、景麒は早口にまくしたてた。主を見つけた誇らしさは、小娘の頑迷さに萎んでいった。

 天は何故、慶にまたも女王を遣わすのか。

 景王舒覚の治世は僅か六年しかもたなかったというのに、胎果の、しかもこんなに若い娘を指名するとは。
 顔を上げると、棒を飲んだように立ち尽くす娘が目に入る。景麒は娘を睨めつけて許しの言葉を求めた。追っ手が迫っている。ぐずぐずしている暇などないというのに。
 景麒の剣幕に気圧されて、娘は許すと呟いた。景麒は娘の足に額を当て、誓約の儀を終えた。その途端、建物に嵌められていた玻璃という玻璃が砕け散った。
 割れた玻璃で怪我をした者がそこここで呻き声を上げている。しかし、己が主は無傷だった。

 間一髪だった。

 景麒は血の臭いに目眩を感じながらもほっと安堵する。しかし、ここに留まることは危険だ。関係のない者たちをこれ以上傷つけることも避けたかった。
 戸惑う主を急きたてて、景麒は学舎の上を目指す。中に留まれば、蠱雕はきっと建物を崩壊させてしまうことだろう。それでは無用に怪我人を増やすばかりだ。そして、外に出たとき、景麒はそれが杞憂でないと知る。しかし。
 景王に選ばれたはずの娘は、呆然と蠱雕の攻撃を見つめるばかりだった。使令の名を叫びながら景麒は歯噛みする。水禺刀は自らの姿を長剣に変えた。

 故に、今度の景王は、剣を扱える人物のはず。

 景麒は芥瑚に命じ、主に水禺刀を渡した。己の剣を手にすれば、王としての使命を思い出すかもしれない。それなのに──。

 主は、蠱雕に水禺刀を投げつけたのだ。

 祈るような思いを踏みにじった愚かしい小娘に、景麒は驚愕を隠せなかった。

 無事に慶に帰れるのだろうか。

 そんな疑問が頭を過る。景麒は泣き喚く娘に賓満を憑依させた。主自ら水禺刀を振るわなければ、慶に辿りつくことはできないだろう。
 冗祐に操られ、蠱雕を倒した主は、泣きながら海に飛び込んだ。景麒は主が泣きやむのをじりじりしながら待ち続けた。
 すぐにでも出発したい気持ちを、景麒はずっと抑えていた。主が戸惑っていることが分かっていたから。しかし、仕留めたのは足の速い蠱雕のみ。追っ手は他にもいるのだ。

 誰が、何のために、追っ手を差し向けるのか。

 そんなことは景麒にも分からない。今は、新しき景王を無事に慶に連れ帰ること。景麒はその使命を果たすべく必死だった。しかし──。

 己の命が危ないことにも気づかない頑迷な小娘。

 こんな愚かな王に、慶を救うことができるのか。景麒は暗鬱を隠すことができなかった。
 抗う主を引き起こし、景麒は使令に主を任せた。水を浴びたとはいえ、主が纏う血の臭いは景麒を苦しめる。驃騎に離れて飛ぶよう命じ、班渠に騎乗した景麒は海上に舞い上がった。

 陸地から十分に離れたところで呉剛の門を開いた。班渠が潜り、驃騎が潜った。その後を追い縋るように、数多の妖魔の気配がした。
 妖魔が組織的に人を襲うなど考えられない。では、糸を引いているのは、恐らく他国の王。それは、いったい誰なのか。何のために新しき景王を狙うのか──。
 その疑問には、じきに答えが出た。夥しい妖魔が、景麒を取り囲んだ。その妖魔に命を下す、麒麟。それは、愁いに満ちた貌をした、隣国の宰輔であった。
 巧州国宰輔塙麟は、使令に命じ、景麒を捕らえた。ごめんなさい、と小さく呟いて涙を流す塙麟は、景麒の角を封印した。
 力の源である角を封じられた景麒は、無力な獣であった。もう、使令を使うこともできない。そして──細く感じていた主の王気をも、感じることはできなかった。

 主上。

 薄れゆく意識の中で、景麒は呟いた。二度と、生きては会えない予感がした。しかし──。

 征州城の奥に幽閉されていた景麒は、己を呼ぶ声にふと顔を上げた。目を射るような緋色の髪と輝かしい翠の瞳。胸に暖かな陽光が射したような気がした。
 辟易するような血の臭いにも怖けず、景麒は主の足許に身を伏せたのだった。

* * *  3  * * *

 景麒は肩を震わせて俯く主から目を逸らした。そしてまた深い溜息をつく。胎果で若い女王が、己を助けてくれた同じく胎果の隣国の王に惹かれても仕方ない。頭では分かっていた。しかし。
 誰も味方のいない王宮で、景麒だけに心を開いた前の主を思い出す。狡猾な官吏に翻弄され、己の下僕たる麒麟に恋着し、狂気に蝕まれていった哀れな景王舒覚を。

「延王……あなたは、全てをご存じだったはずです。それなのに、何故」

 景麒は振り絞るような声で隣国の王に問うた。五百年もの間、玉座に君臨する稀代の名君が、何故、隣国の王を伴侶にしようと思ったのか。

 いや、違う。

 何故、よりによって景麒の主を伴侶と定めたのか。

 納得いく説明がほしかった。

「──天啓だと言ったはずだが」
 隣国の王は口許を歪めて笑う。

 この男は、どうしてこう、景麒の心を逆撫でするような言葉を吐くのか。

 景麒は激した。そして、ついに主の前では訊かずにいようと思っていたことを口に出した。
「あなたは、我が主上を脅迫したのではないのですか。助力と引き換えに……!」
「景麒!」
 鋭い声に景麒の問いは遮られた。黙して語らなかった主が初めて声を上げたのだ。蒼褪めた顔とは裏腹に、主の声は低く静かだった。

「──お前は、私が脅迫に屈したというのか」
「主上……」
「私と……お前を助けてくださった延王が、脅迫するような方だと、本気で思うのか」
 主ははたと景麒を見つめる。その勁い瞳に、景麒は射竦められ、瞠目した。
「──延王は、公正だった。慶の実情も雁の立場も分かりやすく教えてくださった。その上で、蓬莱に帰りたいならば延麒に送らせる、とまで約束してくださったんだ」
「主上……」

「──この身も命も、慶のためにある。重々承知だ。けど、私の心は私のものだ!」

 主の翠の瞳が燃え上がる。そこにいるのは蓬莱で見た愚かしい小娘ではなかった。王者の覇気を漲らせる女王であった。
 主の怒りを受けて、景麒が少し怯んだ。そんな景麒を真っ直ぐに見つめ、若き女王は毅然と言い放つ。

「──心まで、天に縛られたりはしない! そんなことは断じて認めない!」

 それから、主は隣に立つ隣国の王の手にそっと己の手を重ねた。その仕草は、武断の女王を年相応の少女らしく見せ、景麒の胸を穿った。

「脅迫なんかじゃない。このひとの手を取ったのは、私自身だ。──私を、信じてくれないか、景麒……」

 若き女王は、陽光の如き王気を無意識に放つ。そして──己の僕に理解を求めた。真摯な目を向ける主に、景麒は黙す。

 信じよ、と、命じるだけでよいのに。あなたは、王なのだから──。

 景麒はそっと溜息をつく。麒麟は王命に従う者。王に背くことなど、所詮できないのだ。景麒は不本意な面持ちで頷く。主は柔らかな笑みを見せた。
「──ありがとう、景麒」
「僕に……軽々しく礼など述べるものではありません」
 横を向いて憮然とそう呟く。それでも──主の笑みは、景麒を安らがせた。角を封じられ、気配すら感じ得なかったあの頃に比すれば、主がここにいるというだけで、景麒は心穏やかになれる。

「──それでも、礼を言いたいんだ。ありがとう」

 己の僕に礼を述べる女王は、いったいどんな貌をしているのだろう。視線をそっと戻す。主は深々と頭を下げていた。そして──。
 女王の華奢な手を握る延王尚隆は、景麒に見せる貌とは似ても似つかぬ優しい笑みを湛え、主を見つめていた。それは、景麒に複雑な想いを齎す。

 景麒が偽王に囚われている間、二人はどのような時を過ごしていたのだろう。

 妖魔を斬って泣いていた主は、真新しい皮甲を人の血に染めて現れた。隣国の王は、その主を助力したという。

 己と同じ胎果の女王を伴侶と定めた、大国の放埓な王──。

 もしかして、五百年玉座を守るということは、景麒が思う以上に厳しいことなのかもしれない。だがしかし。

 隣国の王が、どのようにして女王を伴侶としたのか。

 景麒には、強かな大国の王がうら若き主を尤もらしく言いくるめる様が容易に想像できた。

「──私は、主上を信じます」

 決然とした景麒の応えに、主は眩しい笑みを見せる。そして、言葉の裏の棘を知る隣国の王は、楽しげに笑って大きく頷いた。

「──肝に銘じよう」

 延王の答えに、景麒は黙して頷く。この密かな応酬に、主は小首を傾げ、延麒は肩を竦めて苦笑したのだった。

2008.01.15.
 「6万打記念」リクエスト、短編「驚愕」をお送りいたしました。 御題は「幸せな二人の間を裂く人の話」でございました。
 ──まずはお詫びを。 リクエストくださった花梨さま、1年以上もの間お待たせしてしまいました。 本当に申し訳ございませんでした。
 このリクエストをいただいてすぐに「これは景麒だ」と思い、拍手に掲載した 「尚景対決」及び「女王の決意」で書こうと決めました。それなのに──。
 どうしてこんなに詰まってしまったのか、私にも解りません。 やっと完結させることができて、ほっとしております。
 それだけに、お気に召していただけると嬉しく思います。

2008.01.15. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
「献上品」 「月影余話」 「玄関」