「月影余話」 「献上品」 「玄関」

憐 歌れんか

作 ・ 速世未生   挿絵 ・ 柘榴さま

 そのひとが現れたとき、辺りが輝いた。月光に照り映える、黄金色の髪が放つ金波の光──。

「──そう、あなただ。あなたを捜していた」

 そう差し出された手を夢見心地で取ろうとして、彼女は気づく。そのひとが見つめているのが、己ではないことを。
「そ、そんな! 私には無理です。何故、私なのです」
 細い悲鳴。驚愕に見開かれた眼。それを見つめる静かな夕闇色の双眸。

「──天があなたを選んだ。天啓です。あなたが新王だ」

 そのひとはただ見つめる。彼女ではなく、おとなしやかな、彼女の姉を。そして、そのひとは優雅に跪き、厳粛な声で宣誓した。

「天命をもって主上にお迎えする。御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと誓約申し上げる」
「──」

 神獣麒麟に跪かれた女は固く目を閉じた。細い肩が大きく震える。誰もが知っていた。女が、否、と言えないことを。孤高不恭の麒麟がその膝をつく者こそが王なのだ。

「──許す」

 女はか細い声でそう呟いた。その声に応じて麒麟は更に深く頭を垂れる。そして優美な僕は立ち上がり、主の華奢な手を取った。

 ──そうして彼女の姉は、天上人となった。
挿絵1
 微笑みを湛えた麒麟が彼女の前に跪く。そして交わされる主従の契約。神獣麒麟は彼女の手を取り、天上の美しき城に向かうのだ──。

 彼女は涙とともに目覚める。その夢は夜毎繰り返し繰り返し、彼女を苦しめる。
 金の髪の美しきひとは、彼女ではなく彼女の姉を選んだ。おとなしやかで、平凡な幸せをこそ望んでいた、彼女の姉を。
(何故、私なのです……)
 その細い悲鳴に彼女は答える。
(そうよ、何故、あなたなの? 私ではなく──)
 繊細で気弱な姉に、彼女は夜毎繰り返し問うた。
(何故──)

 台輔失道、景王禅譲により崩御──。

 その報に彼女は驚愕した。姉が天上人になって、まだ、たったの六年しか経っていない。それなのに、姉の王朝は、もう瓦解してしまったのか──。
(何故、私なのです──)
 姉の言葉が耳に谺する。あの人は、ずっとあのままだったのだ。麒麟に選ばれながら、ずっと変わらずに愚痴を言っていたに違いない。何故、王としての覇気を持てなかったのか。

 私が選ばれていたならば、あの美しい麒麟を、決して失道させたりはしなかったのに──。

 強い怒りが彼女の身体を突き抜けた。そして彼女は決心する。己が王になろう、と。
 あの麒麟は、王を選び損ねたのだ。やはり、あのとき選ばれるのは姉ではなく、この私だったのだ。彼女の信念は、周りを動かした。

「我こそは景王──」

 凛然と立つ彼女の前に、多くの民がひれ伏した。民は荒廃に乗じて私腹を肥やす諸侯を憎んでいた。彼女のために集まり、彼女を認めぬ諸侯を膨大な数で包囲した。宰輔景麒を諸侯が隠したとの噂に、その数は更に増えた。風は彼女に有利に吹いていた。やがて──。

 美しく着飾り、平伏する。
「面を上げよ」
 ゆっくりと、彼女は頭を上げる。
「お前は美しいな」
 塙王は囁く。
「お気に召していただけて、光栄ですわ」
 婉然と微笑みを返す。塙王の吸い付くような視線をことさらに引き寄せるように。塙麟の苦い顔。気にすることはない。麒麟は王の僕なのだから。
 巧州国首都、傲霜。国主塙王が住まう翠篁宮にて、彼女の野望は花開く。彼女の望みどおり、塙王は彼女の手を取った。
「──景麒はお前にやろう。それならば、諸侯もお前を拒むまい」
 彼女を抱き寄せた塙王が耳許で囁く。言質をとった。これで、私は景王と認められる──。そう、宰輔景麒を、麒麟を手に入れれば。
 目的のためには手段を選ぶことなどしない、彼女はそう誓った。彼女は己の美しさと艶やかさを知っていた。それを隠す気もなかった。
 自信に満ちた、若く美しい彼女を、隣国の王は愛でる。彼女の思惑通りに。そして惜しみなく与えられる品々。艶やかな襦裙、豪華な宝石、畏まり額ずく召使。
 彼女は目を見張る。これが、王の力。姉は、これを自ら手放したのだ。なんという愚かな女! 麒麟に選ばれ、贅を、力を与えられたというのに、それを拒んだ。

 ──私は愚かしい失敗などしない。

 女王に相応しく、豪奢に着飾った彼女はそう誓う。
挿絵2
「──これが、景麒だというのか」

 差し出された獣を見つめる。雌黄の毛並み、金の鬣、そして額に生える一本角。紫色の瞳を哀しげに開く、優美な獣を。そして彼女は塙王の使いに問うた。
「人の形にはなれぬのか?」
「──角を封じてありますので。封じなければ使令を使います」

 私が望んだ景麒は、獣ではない。

 それでも彼女は優美な獣に手を伸ばす。しかし、雌黄の毛並みの獣は頭を振り、彼女の手を拒んだ。あの日と同じ夕闇色の瞳に浮かぶ光は、雄弁に語る。

(お前は、私が選んだ王ではない)

 彼女の顔が引きつった。怒りに頬が紅潮する。そして、すぐ、その朱が引き去り、彼女は蒼白になった。

 あなたは、またしても、私を拒むのか──。何故。何故なにゆえに、私を拒むのか──。

 塙王は語る。宰輔景麒が蓬莱から連れてきた景王は、またもや気の弱そうな小娘だった、と。無力そうな、たいした王の器量とも思えぬ小娘。
(お前のほうがよっぽど王らしい覇気がある)
 塙王はそう嗤い、彼女を抱きしめた。
(──案ずることはない。あの小娘は近いうちに始末する)
 塙王はそう言い、嗤った。彼女は隣国の王の言葉を信じた。
「もう、よい。連れて行け。──逃がすなよ」
 そして景麒は鎖に繋がれた。

 真の景王が雁の王師とともに偽王討伐に向かっている。そんな噂がまことしやかに流れた。大国雁の王師を味方に付けたもう一人の景王──臣に動揺が広がる。彼女は怯まない。
「動じることはない。雁が味方したとて、こちらには巧がお味方くださっている。それに、台輔はこちらにいる。麒麟を持つ私こそが真の王だ」
 声高に言い募る彼女に、臣は冴えない顔を見せる。獣形の麒麟を鎖に繋ぐ王が、本当の王なのだろうか──。不信の輪が徐々に彼女を包みつつあった。
 景王が雁の王師の先頭に立ち、景麒を奪還した──。州師は叩頭し、景王を迎え、頭を上げる者には宰輔景麒が叱責を与えた、と噂は瞬く間に慶を駆け抜けた。口を利けなかったはずの麒麟が話し、使令を使ったと言う。

「──宰輔の封印を解いた方こそが真の景王だ」
「真の王は血を厭う麒麟を戦場に連れては来ない」
「偽王を倒せ」

 彼女は顔色を変えた。偽王を倒せ、偽王を倒せ──。人々の声が谺する。昨日まで彼女こそが景王だと跪いていたはずの民が、今や彼女を追い立てる。彼女は後退を余儀なくされた。

「──偽王、お覚悟召されよ」

 立ちはだかる武器を持つ人々。凶刃に驚愕して見開かれた瞳。死を目前とした彼女は、ただひとりの面影を心に思い浮かべた。

 ──景麒。私はあなたに選ばれたかった。あなたとともに雲海の上の住人になりたかった。

 ──景麒。私が望んだのは、天上の光の如きあなた。王になればあなたとともに在れたというのに。

 ──景麒。あなたは何故、私を選ばなかったのか。何故、私ではだめだったのか……。

 そして景王を名乗った女はあっけなく討たれ、斃れた。仙ですらない彼女は、余りにもあっさりと死に至った。討ち取った民が驚くほどに。

 偽王、斃れる──。

 その報は巧州国首都傲霜、国主塙王が住まう翠篁宮にも伝えられた。塙王は一言呟いただけだった。

「──そうか」

 天命なき王はやはり王ではいられない。塙王は自嘲の笑みを浮かべる。天命受けし者でも、玉座を追われるというのに──。塙麟はとうに失道の病に罹っていた。
 塙王は下を向く。涙が一粒、床に落ちた。それから塙王は、ゆっくりと顔を上げ、嗤いだした。
 ──胎果の小娘は、同じく胎果の延が助力し、生き延びたというのに。儂が手を貸したお前は、呆気なくこの世を去った。

 ──舒栄、お前は若い。お前は愚かだ。……この儂と同じく。それだからこそ、お前に手を貸さずにはいられなかった。

 ──舒栄、野心だけでは国を治めることはできぬ。お前は玉座の恐ろしさを知らぬ。王の孤独を知らぬ。哀れな女よ。だからこそ、お前を愛さずにはいられなかった。

 ──舒栄、儂も遠からずお前の元へ行くだろう。愚かさゆえに。──お前は喜ばぬかもしれぬが。そう、お前が望んだのは、天上の光。天命を下す麒麟のみ。お前はあの麒麟だけを狂おしく恋うた。それを知るものは──儂ばかりであろう──。

 彼女は偽王として歴史に名を残す。舒栄の乱、と。彼女に手を貸した塙王も、失道した塙麟が身罷った後、まもなく登遐した。

 ──彼女の哀しみを知るものは、今やもう、誰もいない。

2005.10.24.
 「私的十二国雑記」の柘榴さんのサイト1周年記念に献上した作品です。 なんと、こんな素敵な挿絵を描いてくださいました! 
 ──感激です!   「お土産にしてください」とのお言葉に甘えて当方でもアップさせていただきました。
 そもそもこの「憐歌」は、柘榴さんの描かれた麗しき「予王・舒栄」姉妹を見て、 書き始めた作品なのです。 SSのつもりで書いていたら例の如く長くなり……。 結局2ヶ月もかかってしまいました。
 柘榴さん、拙作を快く受け取ってくださって本当にありがとうございました。  柘榴さんの素敵なサイト「私的十二国雑記」は こちらからどうぞ!
(無断転載厳禁! 勝手にお持ち帰らないでくださいね!)

2005.11.18. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
「月影余話」 「献上品」 「玄関」