「月影余話」 「玄関」

月 夜


 月影つきかげさやけき夜には、遠く離れし伴侶きみを想う──。

* * *    * * *

 ふと顔を上げると、綺麗な月が出ていた。そういえば、しばらく月などじっくり見てはいなかったな、とひとりごちる。窓を開け、露台に歩み寄ると、穏やかな雲海に月影が浮かんでいた。
 その──淡い黄色の光の中に、不意に現れる細い背。後ろ姿さえも美しいその娘は、露台の欄干に凭れ、華奢な手を月にかざす。闇に溶けてしまいそうな小さな肩を震わせながら。

 ああ、お前はそこにいたのか──。

 しばし足を止めて、月光に照り映える紅の髪を靡かせるその背を眺める。
 気配を感じても、決して振り返らない、誇り高き隣国の女王。涙を湛えながらも清麗に微笑んだ、あの日の姿が忘れられない。紅の炎を纏う鮮烈な女王の、別れを受け入れる微笑みと惜しむ涙。せめぎあう二つの感情に、なお揺らがない勁い瞳に、心打たれた。

「──陽子」

 延王尚隆は美しき伴侶の名を小さく呟いた。幻影は現れたときと同様に、唐突に消えた。──月が見せる美しくも儚い幻と分かっていた。
 わが伴侶も、月華輝く宮城で、同じこの月を眺めているだろうか。
ふと蓬莱の歌を思い出した。懐かしい万葉の歌を。

「朝日影 にほへる山に照る月の飽かざる君を 山越に置きて──」

 照り映えるこの月のように見飽きぬお前を、山の向こうに行かせてしまったな──。

 そう呟くと、尚隆は微笑を浮かべ、飽かず月を眺めた。

* * *    * * *

 気がつくと、堂室に月光が射しこんでいた。ああ、月が出ている。月など見たのは久しぶりだった。──雁にいたときは、毎晩月ばかり見ていたというのに。
 月に惹かれて露台に出た。月光は静かな雲海を優しく照らしていた。

 ──愛してる。

 そう胸で呟くだけで、涙が込みあげるのは何故だろう。それは口に出してはいけない言葉だから、なのだろうか。零れそうな涙を堪えると、後ろから声が聞こえた。

(──無理をするな、と言ったろう)

 思わず振り返ると、淡い月の光の中に、慕わしいあのひとが立っていた。深い色を湛えた双眸は優しい光を浮かべ、穏やかに微笑していた。

「──尚隆なおたか

 景王陽子は小さく呼びかけた。愛しき伴侶の影は、揺らいで闇に溶け去った。──月が見せる懐かしくも儚い幻と分かっていた。

 あのひとも、この美しい月を眺めているだろうか。

「──月夜よし夜よしと人に告げやらば 来てふに似たり 待たずしもあらず……」

 古今和歌集の歌を思い出した。月が綺麗だと告げたなら、あのひとは、きっと人の悪い笑みを見せるだろう、お前はそんなに俺を待っていたのか、と。

「──そんなこと、言ってあげません」

 言葉とは裏腹に、陽子は唇に笑みを浮かべ、飽かず月を眺めた。

2005.10.18.
 秋の綺麗な十三夜を見ながら書き上げたお話です。 「月影」のすぐ後くらいのつもりで書きました。
 秘めた恋には月が似合うでしょう──と、思って書き始めたのは7月末。 なんでこんなに時間がかかったかというと、「歌」を決めかねてたからです。 古今集にこだわっていたのですが、なかなかいい歌を見つけられず、結局 万葉集から持ってきました。
 お気に召していただけると嬉しいです。

2005.10.19. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
「月影余話」 「玄関」