万 感
どうして、こんなにも気づいてしまうのだろう。どうして、何もかも分かってしまうのだろう──。
筆を運ぶ主の手が、ふと止まる。遠くを見つめる翠玉の瞳には、いつもの煌めきがない。逡巡、溜息、そして、自嘲の笑み。小さく首を振り、主はまた筆を動かす。国主景王のその様子を、慶東国冢宰は気遣わしげに眺めていた。
──この方はずっと一心不乱に政務をこなしてこられた。まるで、何か辛いことをお忘れになりたいかのように。
そう感じるのはおそらく自分だけであろう。冢宰はそう思い、密かに嘆息した。主はその若さにもかかわらず、己の感情を律することに長けている。
「──主上」
「なんだ? 浩瀚」
主は手を止め、浩瀚を見上げる。柳眉を顰めた訝しげな顔に浮かぶ微かな苛立ち。──それは、己に向けられたものではないことを、浩瀚は承知していた。
「どうも今日は身が入らないようですね。少し休憩を取られてはいかがですか?」
「──そんなことはないし、そんな必要もない」
主の応えはにべもなかった。憮然とした顔で、主はまた筆を動かす。その勘気に、浩瀚はまた溜息を零す。確かに主の様子は、懸案を考えながら政務をこなしているようにしか見えないだろう。しかし、浩瀚にはその苛立ちの理由が分かってしまう。
──かの方がしばらくお見えでない。
かの方の訪問を厭う台輔が密かに上機嫌な一方で、主の気分は沈んでゆく。
「主上……。そのように無理をなされては、いざというときに的確な判断を下すことがおできになりませんよ」
「浩瀚。──私は無理をしているわけではないよ」
重ねて諌言する浩瀚に、主はふわりと微笑んだ。その笑みは仄かな憂いを帯び、鮮烈な武断の女王を儚げにすら見せる。そんな主の姿は、まるで雨に打たれた花のように、あえかで淋しげだった。
この方は、本当に、いきなり、このような無防備な顔を曝けだす──。
浩瀚は図らずも絶句した。
「──でも、心配かけたようだな。悪かった」
主は軽く詫びると快活に笑んでみせる。それは、この麗しい女王に馴染む、いつもの闊達な顔だった。浩瀚は頭を下げ、拱手する。
「──主上を心配いたしますのも私の役目です」
「それじゃあ、せっかくだから、少し休ませてもらうよ」
主は筆を置き、立ち上がって伸びをした。小さな溜息をつく主は己の物思いに沈み、浩瀚の動揺には気づいていないようだった。
「浩瀚、後は頼む」
主は悪戯を思いついた子供のように笑うと、片手を挙げ、執務室を出ていった。浩瀚は拱手したまま、その姿を見送った。
きっと、堯天に下りられるのだろう。
浩瀚は微笑する。少しは元気におなりだろうか。台輔に報告するのは、門を抜けられてからにしよう。
主独りで下界に下りるのは危険がないとはいえない。しかし、金波宮に閉じこもっている主は、しだいに鬱屈してくる。少しは気分転換も必要だと浩瀚は思っていた。台輔はいつも主に使令を憑けている。浩瀚も禁軍左将軍である桓魋に申しつけ、主の剣の相手をさせている。そのせいか、主の剣はかなり腕を上げている。市井の者に後れを取ることはまずないだろう。
浩瀚はいつも主を間近で見つめている。いつしか主が気にかけることはすぐに看破できるようになっていた。そう、気づいてしまうのだ。微かな苛立ちにも、かの方を密かに偲ぶ気持ちさえも。
かの方は主の伴侶だが、己は臣として、常に主の側近くに仕え、主の厚い信を得ている、浩瀚にはそういう自負があった。
己のできる全てで、主の身辺を守り、主の健やかな精神を守りたい。主の鮮やかな笑顔を己の手で守り続ける。浩瀚はそういつも思っていた。そして──。
よい王になろうと努力し、常に王で在ろうと懸命な若き主が曝す無防備な顔を、守っていきたい。主が無防備な顔を曝せる場所でありたい。浩瀚は、密やかにそう願う。
紅の鮮烈な光を纏う女王の凛とした姿を思い浮かべる。その鮮やかな笑顔、翠玉の如く輝ける瞳。浩瀚は微笑する。こんなにも気づいて当たり前、何もかも分かって当然なのだ。万感の想いを籠めて、見守っているのだから。
臣として、──男として。
2005.10.01.
「僥倖」直前のお話です。浩瀚の予想通り、この後、陽子主上は堯天へ……。
最近、浩瀚ばかり書いているような気がします。
なんだか、好きになってしまったみたいです。
表面クールで中身が熱い。しかも報われない……。
この報われなさが私的「萌え」なのかもしれません。
2005.10.01. 速世未生 記