「僥倖目次」 「玄関」

陰 陽いんよう

「──天の配剤とは不思議なものだな」
 主の呟きに、景麒は顔を上げた。主は微笑む。
「胎果の小娘と、長く蓬山にいすぎた麒麟」
 景麒は眉を顰める。景麒の主は、たまに謎めいたことを言う。
「どちらも自国に疎い。国がなかなか治まらないはずだな」
 主はそう言ってまた笑う。咎めようとして景麒は口を開いた。が、言葉は出てこなかった。玉座を厭う、欲のない景麒の主は、よく自嘲めいた笑みを見せる。しかし、今、主の顔は穏やかで、揺るぎなかった。景麒は主の言葉を待った。
「他国のことは、雁しか知らないけれど」
 景麒はまた眉を顰める。主はおもむろに続けた。
「──胎果の王と、胎果の麒麟。どちらもこちらのことに疎い。登極当時のことを聞いたことがあるか?」
「──少し」
 延王が登極した五百余年前の雁は、折山の荒、亡国の壊だったという。国を荒廃しつくした先帝が斃れた後、次王を探し出せないまま宰輔は天寿尽きて斃れてしまった。空位が長く続き、雁はこれ以上ないくらいに荒廃していた。

「今の雁しか知らないから、想像しがたいが」
 主は溜息をつく。豊かな北東の大国を思い浮かべ、景麒は頷いた。
「私もです」

 何も残っていない国土を、延王はゆっくりと立て直していったという。延麒は、二十年でこんだけ、と評したことがあると笑っていた。
「──延王は、あちらでは、地方領主の世継ぎだったと聞いた」
 主は遠くを見つめて呟いた。

 あちらが、恋しいのだろうか。それとも──。

 景麒は俯く。主を蓬莱から攫うように連れてきた、という負い目からか、景麒は、蓬莱という言葉にも、胎果という言葉にも過敏に反応してしまう。
「戦乱で父領主を亡くし、後を継いだそうだ」
 ゆっくりと主は己の伴侶の話を続ける。景麒は黙す。かの方の話は聞きたくない、などと、主に言えるはずもない。
「そして、その戦乱で何もかも失くした。家族も、民も、城も、国も。──景麒」
 主が景麒に目を向ける。輝かしい翠の瞳。景麒は主のその勁い瞳を受けとめることができない。
「私には、想像もつかないな、国が滅ぶということが。──お前は私がいた世界を見ただろう」
「──はい」
「どう思った?」
 主に問われて蓬莱を思い起こす。無機質な殺伐とした空洞。絶えず自分を拒む空間。
「異質でございました──
「そうだろうな」
 主は再び微笑む。
「──私は、ただの女子高生だった。戦争なんて、教科書の中でしか知らない。延麒が都を焼け出されたという応仁の乱も、日本史で習ったが、知識があるだけだ」
 主はまた遠くを見つめる。景麒には主の言わんとしていることが、よく分からなかった。ただ、主がいつも、己の伴侶──稀代の名君と世に聞こえた隣国の王を気にしていることは、理解していた。

「──それでも、この慶東国の王は主上です」
「そうだな。私が王だ」

 主はきっぱりと言い切った。景麒は少し驚いた。玉座に執着が薄い主は、王の自覚も薄いのだと思っていた。

「──迷うなよ、お前が王だ」
 主は自分に言い聞かせるようにそう呟く。
「偽王軍と戦ったとき、延王にそう送り出された。何かあると、いつも思い出す」

 景麒はまた目を伏せる。主の心にはいつも隣国の王がいる。身一つで雁に逃げこんだ主を保護し、その登極に助力した恩人なのだから、それは主にとっては至極当然のことなのだろうが。

「それでもやはり迷うときがある」
「主上……」
「胎果の王に胎果の麒麟──。同じ戦乱を経験し、同じ理念をもって国を立て直した。羨ましいと思っていた。私には理解者がいなかったから」
 主は景麒を見て悪戯っぽく笑う。景麒はその笑顔から目を逸らす。蓬莱育ちの主を理解できず、諌言ばかりの景麒を、主は責めている、と思った。
「でも、それが天の配剤なのかと、最近は思う。延王は領主の世継ぎだ。国を治めていく器量と自覚があった。それならば、異国から戻ってもすぐに玉座に就ける」

 景麒は顔を上げた。遠くを見つめる主の顔には決然としたものがあった。それは王だけが持つ、粛とした威厳だった。

 ──本当にお変わりになった。

 王気を頼って蓬莱へ渡り、この方を見つけたとき、またか、と思ったものだ。先の国主、短命に終った予王によく似た娘だと。しかし。

「私は、何も知らない小娘だから、あの辛い旅が必要だったのだろう」

 主はまた景麒に視線を戻した。主は、蓬莱まで迎えに行った景麒と、塙王の追っ手により分かたれた。その後、景麒は塙王により捕らわれ、偽王のもとに送られた。そして主は、塙王の放った妖魔と戦いながら、巧から雁へと逃げ延びたのだった。

「──人は愚かだ。愚かだからこそ、過つ。私はそれを学んだつもりだ」
 主は優しく微笑む。景麒は声なく頷いた。

「人は愚かだ。人である私も。だからこそ、私にはお前が必要なんだ」

 景麒は顔を上げた。主が勁く優しい眼を向けていた。景麒は目を逸らすことが出来なかった。

「愚かな私に、仁を諭し、慈悲を教える、お前が私の半身なんだ」

 主が静かに手を伸ばす。景麒は動けなかった。主がふわりと景麒を抱きしめる。初めて触れるその身体は、細く柔らかかった。この方は、この華奢な身体で国を支えているのだ、景麒は感慨深く思った。

「景麒、私は愚かだ。それを知るひとをもまた、必要としている。──分かってくれないか」

 小さな肩が震えていた。景麒は己の主にして半身でもある、か細い少女の身体をそっと抱いた。

「──存じております」

 主の登極に尽力してくれた、隣国の偉大な王。その助けなくば、景麒も偽王に討たれていたかもしれない。しかし、延王尚隆は、景麒の主を不当に扱った。それは、身分高きものには有るまじき行為だった。主は否定したが、景麒には、助力を盾に取った脅迫にしか聞こえなかった。
 王が王を伴侶に選ぶ、そんな前例のないことをやってのけ、悪びれない隣国の放埓な王。自国で何をしようと勝手だが、景麒の主をなぜ巻きこむのか。いつも憤っていた。
 景麒が主の伴侶を疎んでいることを、主は承知していた。景麒はそれを隠す気もなかった。景麒にはそれは当然のことと思っていた。しかし、そう思おうとしていたことに気づいた。
 隣国の王は、いつも当たり前のように、景麒の主に触れる。主の半身たる景麒でも、玉体に触れることは憚りがあるというのに。それは、景麒がそうと認めたくない感情だった。

 己の半身たる主が、己よりも隣国の王を近しく思っている──やるせない気持ち。偽王に捕らわれ、離れているうちに、景麒は半身を奪われてしまった。哀しいまでの喪失感。

 しかし、今、己の半身は腕の中にいた。紅の光を纏う鮮烈な女王と人は呼ぶ。が、景麒の目に見える主の王気はそうではなかった。

 太陽の子と書く、その名のとおり、眩しく暖かい恵みの陽光──。

 か細い身体が放つ慈愛の光に包まれ、景麒は安らいだ。この方は、己の主。分かつことの出来ない半身である、と。

「存じておりますとも」

 景麒はもう一度そう言った。主は顔を上げた。いつも勁く輝かしい瞳が少し潤んでいた。主の涙など、蓬莱でしか見たことがない。

 蓬莱で塙王の追っ手の妖魔に襲われた。泣き喚く主を叱咤し、水禺刀を持たせた。冗祐を憑依させ、妖魔を斬らせた。命がかかっているというのに、聞き分けない主に苛立った。そのまま主をこちらに連れ去り、分かたれた。そして。

 再会したとき、主はもう王の顔をしていた。延王の助力を受け、雁国王師とともに景麒を助けにきた主。水禺刀で景麒の足を縛めた鎖を断ち切り、碧双珠で封じられた角を解放した主には、蓬莱で見つけたときの頼りなさはなかった。

 それからいつも、王で在れ、と言いつづけてきた。王で在ろうと努力してきた主の孤独を初めて知った。まだ若い主の涙を、隣国の王は受けとめているのだろう。景麒は微笑んだ。主は恥ずかしそうに微笑を返した。武断の女王の素顔は、まだまだ少女なのだ。

「鈍い主と、口下手な麒麟か。意思の疎通も大変だ」
 主は普段の調子に戻ってそう笑う。景麒は主を抱きしめたまま笑みを浮かべ、そっと言った。
「主上、お気持ちは存じておりますが、唐突なお忍びはご遠慮願います。私では、あの方をお引止めできません」
 主は一瞬はっとした顔をした。そして、声を上げて笑った。
「だからお前が迎えに来なかったのか! おかしいとは思ったんだ!」
「あのまま、あの方をお帰ししてしまっては、主上は私をお叱りになるでしょう」
「賢明な判断だな」
 主は、にやりと笑った。
「あのひとも言っていたよ、あまり景麒に心配をかけるな、と。──そういうことか」
 主はくすくす笑う。延王は、景麒の気持ちを汲んで、珍しくも、無茶な伴侶を諭してくれたらしい。景麒は微笑した。
「そういうことです。主上がおとなしく金波宮にいてくだされば、何も問題はなかったのですよ」
「やっぱり最後はそうくるか」
 主は笑い含みにそう言った。嫌味を言わない景麒なんて気持ち悪いものな、と苦笑する。

「──そうだ、ひとつ教えておこう」
 主は悪戯っぽく笑った。

「蓬莱で、妖魔に襲われて、泣き叫ぶ私に、お前は、こんな主人は願い下げだと言ったが──
「主上……」
「黙って聞け」
 主の鋭い叱責に、景麒は口を閉じる。妙な居心地の悪さを感じた。主は笑い含みに続ける。
「私は、あのとき、生まれて初めて誰かを怒鳴ったんだ」
「主上──?」

「泣き叫んだのも、おそらくあれが初めてだ。──私は、お前に、生まれて初めての我儘を言ったんだ」

 虚を突かれ、景麒は瞠目した。その反応に、主は満足そうな闊達な笑みを見せ、尊大に言った。

「ありがたく思えよ」
「──はい」

 景麒はただ苦笑する。しかし、その思いがけない告白に、心が和んだのも確かだった。それから、主は景麒を抱く腕に力を籠め、低く囁く。

「──ありがとう、景麒」

 景麒は言葉を返す代わりに、主の豊かな緋色の髪を撫でた。きっとそれで伝わるだろう。この方は己の半身なのだから。王と麒麟は、分かつことの出来ない存在なのだから。

 眩しく光り輝く太陽の如き主に、月の如く寄り添い、歩いていこう。破天荒な伴侶に影響されて無茶をする主を諌めながら。景麒は微笑する。この温もりを信じて、ずっと歩んでいこう。

2005.07.01.
 慶国主従です。 可愛い陽子ばかり書いていたので、ここらでちょっと漢気を…… と思って書いてみましたが、そうでもないですね。
 実はこのお話は「僥倖」「残照」「独白」と一挙に書き上げた三部作の続編なんですよ。

2005.08.20. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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