「僥倖目次」 「玄関」

邂 逅かいこう

 死なない王朝など存在しない。いつも心に刻んで忘れないことのひとつだ。今は存在を許されていても、そのうち必ず沈んでいく。

 それが何時かも、何故かも分からないが──。

* * *  1  * * *

 柳の王都、芝草。碧を湛えた湖の畔に広がる白く端正な街。雁との国境から柳を一巡りした風漢がこの街に入ったのは二日前のことだった。

 ──どうも良くないな。風漢は溜息をつく。柳の沿岸には妖魔が出ると聞いてから日が経った。

 ──柳は、傾いている。

 人伝ではなく、自らの目で確かめに来た風漢は、それを肌で感じていた。
 街行く人々を見やっていた風漢は、眉を上げた。午門を潜って入ってきた男の一人が、あてがあるのでもなく、ふと立ち止まり、振り返って門前の人々を眺めていた。

 あの男は──。

 年の頃は二十と少し、身なりの良い若者だ。連れている騎獣は騶虞すうぐ。稀にしか見られない珍しい妖獣だ。男の身なりに合っている。
 風漢はにやりと笑みを浮かべる。先日、慶で捕まえ損ねた奏の風来坊だ。前回はすんでの所で逃げられたが、今度はそうはさせまい。風漢は気配を殺し、ゆっくりと男に近づいた。

 男は行き交う人々を眺めながら眉を寄せる。
「……良くないな」
「──何がだ?」
 男の呟きに、風漢は何気なく声をかけた。男は弾かれたように振り返り、瞬いた。すぐに破顔する。
「こんなところで会うかなあ」
「こんなところだから会ったのだろう。久しいな、利広」
 わざとらしい挨拶をする。つい先日、慶の王都堯天で見かけたばかりだ。

 ──おそらく、あのとき利広は風漢を避けたに違いない。

 当たり障りのない話を続けながら、風漢は利広を伴って舎館に向かった。稀な騎獣を連れていれば、舎館選びはなかなか厄介だ。利広は大人しく風漢についてきた。
 ──相変わらず、飄々とした奴だ、風漢は口の端に笑みを浮かべる。利広は邪気のない顔をして話を続けている。この無邪気さは利広の武器だ。利広を見た目どおりの歳に見せる。
 しかし、この風来坊は風漢よりも長い時を放浪に費やしている。この常世でも数少ない風漢の同類だった。その旅の目的も、風漢と変わりない。

 そう、いつも会うのは「こんなところ」──軋み始めた王国の都。

 柳が危ういと聞いて、確かめにきたのだろう。これまで集めた情報を交換するのも悪くない。そう思い、風漢は利広について房室に入った。
 利広が語る柳の様子は風漢とは見る角度が違う。それがいっそ快い。一国の行く末を、王朝の存続をこんなふうに客観的に観察できる者など、そうそういない。臣の立場では、決して語ることはできないはずだ。常世で最も永く生き延びている王朝を支える一柱でありながら、永遠の王朝などない、と断言するこの男を、風漢は好もしく思っていた。
 更に、利広は茶目っ気たっぷりに語る。雁の終焉ならば確信を持って想像できる、と。身振り手振りを交えながらの熱弁に、風漢は声を上げて笑った。
 ──悪くない。延王の気性をよく理解している。そして風漢はにやりと笑う。奏なら想像がつく、と。そう語る風漢に、利広は瞬き、失笑する。有り得るような気がする、と。そして利広は窓の外に目をやり、しばし黙した。風漢もまた黙す。その思いは同じだった。

 ──何故、王朝は死ぬのか。何故、王は道を失うのか──。

 いつか、必ず、自分にも訪れることなのだ。そう自重し、風漢は利広にことさら明るく声をかける。
「お前はしばらく芝草にいるのか?」
「そのつもりだったけど、そういうわけにもいかないかな」
 少し難しい顔をして利広はそう答えた。柳が危ないと確信を得たからには、利広は国に報せを持ち帰らなければならないだろう。風漢は情報提供を持ちかけた。利広はその申し出を、夕飯を奢ると言って受け入れた。

* * *  2  * * *

 利広の奢りで不味い夕食を取った。風漢は柳について知りえたことを一通り利広に話して聞かせた。

 そして話が雑談に流れた。風漢は酒を酌み交わしながら、何気ない口調で訊いてみる。
「──ところで、お前、慶にいなかったか?」
「最近、行ってみたけど。どうして?」
 利広は軽く答える。内に秘めた警戒心を見せないのが、この男の侮れない所だ。風漢は酒を注ぎながら続けた。
「なに、堯天でお前を見かけたような気がしたからな」
「そうか。なんだ、声をかけてくれればよかったのに」
「野暮言うな」
 にやりと笑う風漢に、野暮か、と利広は苦笑する。そして悪戯っぽい目で見つめてくる。
「──もしかして、女連れだった? 呆れた、他国にも女がいるんだ」
「慶の奴はいい女だぞ」
「はいはい、どうもご馳走さま」
 そう言って利広は邪気のない笑顔を見せる。風漢はさりげなく問うた。
「──そんなに美味かったか?」
「そりゃあもう。──って何のこと?」
 利広は何でもなさそうに応えを返したが、語るに落ちる、とはこのことだ。風漢は口の端に皮肉な笑みを浮かべる。

「その言葉、そっくり返そう。何がそんなに美味かったのだ?」

「嫌だなあ、風漢。人の言葉尻を取って」
 利広は笑う。風漢もくつくつと笑う。しかし、利広は気づいていた。風漢の深い色を湛えた双眸がちっとも笑っていないことに。

 慶の話を振られたときから、風漢は気づいているだろう、とは思っていた。気づかれると思ったからこそ、さっさとあの場から逃げ出したのだから。そして、上手く逃げ切れたと思っていたのに。

「──利広、俺とは会いたくなかった、と顔に書いてあるぞ」
 酒盃を持つ風漢は目を細め、底意地の悪い顔をして利広を見つめていた。利広は溜息をつく。
「そりゃあね。男と酒を飲むより、美女と飲んだほうがいいに決まっている」
「美女と酒を飲んだのだろう、慶で」
「──慶のひとは、美女というより、麗人かなあ。男装だし、色気がないしね」
 利広は素直に話しはじめた。風漢はしてやったりとばかりに揶揄する。
「ほう。お前が色気のない麗人と酒を飲むか」

「──色気はないけど、目が離せなかった」

 そう呟き、ふと遠くを見る利広。風漢は黙って一口酒を啜った。確かに、この風来坊の目を惹く光輝が、あの娘にはある。酒盃を卓子に置き、利広は真っ直ぐに風漢を見つめた。

「風漢──何故、彼女に手を出した?」
「随分と率直だな」
「はっきり訊かないと、煙に撒かれるからね」

 利広は薄く笑った。しかし、その目ははたと風漢を見つめ、強い光を放っていた。風漢は口許に皮肉な笑みを浮かべる。
「そんなことは、改めて訊くことでもなかろうに」
「その口から、はっきりと訊きたいね」
 利広は真面目な顔できっぱりと言った。風漢は肩を竦め、酒盃を持ち上げた。そして面白げに笑う。
「利広、お前──大分陽子あれにやられたな」
「風漢こそ。鼻の下を伸ばしきっていたくせに」
「やはり、見ていたな」
 風漢は笑って酒を飲む。しかし、利広は笑わなかった。
「──で? 何故?」
「お前は何故そんなことを訊きたがるのだ?」
「訊いているのは私なんだけどね」
 利広は柔和な笑みを浮かべる。風漢は歪んだ笑みを見せた。

「──そう訊きたいのは、俺のほうだと思うのだが?」

 その勁い視線に利広は目を見張る。
「私にそれを訊くの?」
「是非訊いてみたいものだが?」
「さっき言ったじゃないか」
「──目が離せなかった、と?」
 風漢は酒盃を上げて問うた。利広は薄く笑う。
「で? 風漢は?」
「──陽子あれが言わなかったか?」
「──言っていたね」
「では、その通りなのだろう」
 くつくつと笑う風漢に、利広は溜息をつく。
「相変わらずの古狸だなあ」
「お前に言われたくない」
「──答えなど、期待してなかったけど。でも──
 言葉を切り、利広は自嘲気味に笑う。

「会った途端に殴られると思ってた」

「ほう。殴っても良かったのか」
「いいわけじゃあないけどね。そうされても文句を言えないとは思っていたよ」

 利広はさらりとそう言い、くすりと笑った。風漢はふっと息をついた。伴侶の潤んだ瞳が胸をよぎった。紛れもなく匂いたつ女の眼。その濡れた翠玉の瞳が湛える、教えた憶えのない誘惑の色。

「──成り行きは想像がつく。お前が謀ったのだろう?」
「謀ったとは失礼な。──風漢が悪いんだよ」

 利広は横を向いて溜息をつく。そう、彼女を誘い出し、閉じ込め、押し倒したのは利広だ。ただ、最初から彼女を奪う気ではなかった。

「──あんなに無防備のまま、放っておくから……」

 風漢は何も言わずに笑みを浮かべるだけだった。利広は視線を風漢に戻した。
「何故──笑える?」
「──いけないか?」
 そう返す風漢は少しだけ自嘲の笑みを浮かべていた。やがて、おもむろに呟く。

「──陽子あれは、俺のもの、というわけではないからな」

「彼女もそう言っていたよ。でも──
「──でも?」

「──嘘つきだね、二人とも」

 利広はそう呟くと酒盃を呷った。そして風漢に目線を移した。

* * *  3  * * *

「何故、私を殴らなかったの?」
「お前は、問うてばかりいるな」
 風漢は苦笑する。利広は深い溜息をつく。

「またそうやって逸らかす……」

 しばし沈黙が二人を包んだ。互いに手酌で酒を飲み続けた。やがて風漢は口許に不思議な笑みを浮かべ、利広に訊いた。

陽子あれは──お前を拒まなかったのだろう?」

 利広は答えなかった。

(今のあなたには、私が必要?)

 己を組み伏せる男に怯えもせず、鮮やかな笑みを見せ、麗しい女はそう問うた。逡巡を許さないその真っ直ぐな瞳を思い出し、利広は微笑した。風漢はそれを見て杯に視線を落とす。

「──ならば、俺が口を出すことではない」

 そう、成り行きは想像つく。この男は、無防備な女を少し脅して諌めるつもりだった。そして、返り討ちにあったのだろう。
 あの娘は自らを統べる王だ。己の意に沿わぬものを容れることはない。涙に濡れた瞳は、何処までも真っ直ぐだった。問い質す必要もないほどに。

「──お前が、陽子あれを傷つけていたら、殴っていたかもしれぬがな」

 目を上げた風漢は低く呟く。その物騒な視線を受け、利広は微笑した。
「──私に、そんなことができると思う?」
「──思わんな」
 風漢は笑って酒盃を空けた。利広は風漢の酒盃に酒を満たした。

「──彼女をけがすことなど、誰もできはしない」
「己がものにしておいて、そう言うか」

 風漢の揶揄にも利広は微笑を浮かべるだけだった。否定しないのだな、と風漢は思ったが、口には出さなかった。ゆっくりと酒を飲み干し、利広はぽつりと呟いた。

「──私は誰のものでもない、そう言っていた……」
陽子あれはいつもそう言うぞ」
「──風漢にも?」

 風漢はただ笑って利広に酒を注いだ。利広はその酒を見つめ、おもむろに訊ねた。
「──お前が俺の運命だ、と口説いたんだって?」
「──よくまあ、そこまで訊きだしたものだ」
 風漢は酒盃を持ち上げて苦笑した。利広は意地の悪い顔を見せて笑む。
「否定しないんだね。──彼女に語らせることも、搦めとることも簡単だったよ。分かっているんだろう?」
「──お前なら、簡単だろうな。だが──
 風漢は言葉を切り、酒を啜る。利広は風漢の言葉を待った。

「並みの者に陽子あれの目を受けとめることはできぬ」

 予想通り、風漢はそう断じた。やはりそうか。利広は笑う。──あんなに真っ直ぐ見つめられたら、目を逸らさねば呑まれてしまう。それが嫌なら、抱きしめて唇を塞ぐより手立てがない。

「彼女もそう言っていたよ」
「──自覚があったのか」

 風漢は額を押さえて嘆息した。利広は腹を抱え大笑いした。風漢は嫌な顔をした。
「お前はそうやって笑うがな、俺は笑いごとではないのだぞ」
「──だろうね」
 涙を拭いながら利広は同意する。
「──風漢をこんなに振り回すなんて、さすがは運命の女だね」
「──言葉の綾というものだ。そう言ったほうが分かりやすいからな」
「へえ。天啓を信じてるわけじゃないんだ」
「──お前は信じているというのか?」
「私はもちろん信じているよ。私の立場なら当然だろう?」
 風漢は利広の問いには答えず、酒盃を空けた。──互いの正体を、互いに気づいている。しかし、公の場で出会ったことはない。利広がここまで自らの立場を明かしたのは初めてだった。
 利広は更に真顔で問いかける。あたかも天勅を語る麒麟のように。  

「何故、天意を信じないの? 天啓を受けた身でありながら──

 そして利広は柔和に笑う。風漢は黙して利広を見つめるばかりだった。
「私が彼女に出会ったのも、天の配剤だよ。──どんな意味があるのかは、分からないけどね」
 利広は 明るくそう断じた。それから真っ直ぐに風漢を見つめると、悪びれずに告白した。
「本当は、金波宮に彼女を訪ねようかと思ってた。──でも、止めておくよ。風漢に会ってしまったからね」
 こないだはうまく逃げおおせたのに、と利広は悪戯っぽく笑った。
「私がこれ以上彼女に関わるのを、天はお望みでないらしい」
 だから風漢は安心していていいよ、と利広は屈託なく笑う。風漢は、何を戯けたことを、と大きく嘆息した。それを見て利広はまた遠慮なく大笑いした。

 そしてその場はお開きになった。風漢は明日の朝早く舎館を発つ。利広は昼まで寝ている、と笑って言った。
 階段を上り、右と左に分かれる間際に、風漢はふと思いついた。珍しく本音を忌憚なく語った利広に、風漢はひとつ教えてやった。二百年前、風漢が試みた天との賭けを。利広は噴き出し、さっさとくたばれ、と笑った。

* * *  4  * * *

 ──天の配剤か。

 利広は天を信じている。天帝を見たこともないというのに。風漢は溜息をつく。

「天の配剤、か──」

 独りになった風漢──延王尚隆はひとりごちる。そう、あの娘を初めて見たとき、不覚にも思った。天啓が降りた、と。

 天啓を受けた身でありながら、尚隆は天を信じたことがない。天帝を見たこともないし、自ら天意を感じたこともない。天の理は教条的に動き、そこに天意の入りこむ余地はない。それは天啓を受けて尚隆を雁の王に選んだ延麒六太も同意見だった。

 奏南国太子、卓郎君利広は常世の人間だ。六百年の治世を誇る宗王の息子で、その大王朝を支える一柱でもある。天命を受けた王として国を支配する者は常世の常識を疑う必要がない。しかし尚隆は、そして六太は胎果だ。常世の常識を盲目的に信じることができない。

「何故、天意を信じないの? 天啓を受けた身でありながら──

 利広のその問いは尚隆の心に波紋を投じた。天が本当にあるのなら。尚隆に陽子を遣わし、天は何をしたいのだろう。波乱の絶えない慶を治める王が胎果の女王なのは、どんな意味があるというのだろう──。

 そして尚隆は首を振る。意味があろうとなかろうと、尚隆がここに延王として存在していることに変わりはないのだ。いつか訪れるその日まで、己の内に潜む暗闇を凌いでいく。己の半身たる延麒六太とともに。そして、その昏い深淵に灯りを点す伴侶、景王陽子とともに。

 明日の出立は早いのだ。尚隆は臥牀に横たわり、目を閉じた。

2005.10.28.
 「帰山」で酒を酌み交わした風漢と利広がどんな話をしたのか──。
 そんな妄想が膨らんで書き上げたのが「僥倖」「残照」「独白」三部作でした。 なので「陰陽」ではなく、この「邂逅」で四部作となるはずだったのです。 それが……。書き始めは7月半ば。なんと3ヶ月以上もかかってしまいました。
 狐と狸の化かしあいのような探りあいをし続ける二人。 呆れた私が投げてしまったのが原因でしょうね、やっぱり。
 何はともあれ、ちゃんと完結してよかったです……。

2005.10.31. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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