残 照
「陽子」
そっと耳許で囁かれ、陽子は少し緊張した。
「なに?」
「──目立ち過ぎだ。気配を抑えろ。お忍びにならんぞ」
「え──?」
慶東国の王都、堯天。賑やかに人々が行き交う繁華街を、景王陽子は延王尚隆とともに歩いていた。簡素な袍に身を包んだ陽子は、驚きに目を見張る。少し前まで一緒にいたひとにも同じことを言われたばかりだった。尚隆は微笑を浮かべ、続けて言った。
「忍び歩きするときは、そこの気配に合わせる。変装したら、その恰好の者になりきるのだ」
「──よく、分からない」
陽子は困惑した。今日はどうしたのだろう。いつも、こんなに親切にものを教えるひとではないのに。尚隆は陽子の肩を軽く叩き、面白そうに笑った。
「さっき、俺を見つけたろう?」
「うん。すごく目立ってた」
陽子は即座に頷いた。このひとの際立つ気配は、ひと目で分かる。尚隆は悪戯っぽく笑った。
「あれはわざとだ。見つけやすいようにしていた。──お前は俺が後ろにいても分からんときがあるだろう」
「──うん。いつもの気配がしないとき」
このひとは、陽子が見られたくないときに限って、後ろで静かに見つめている。そう、悔しくなるくらいに。かの御仁はいつも街に溶けこんでいる、変幻自在の古狸だから、と言ったひとの言葉を思い出す。
「気配を殺しているときだ。お前は人の気配には聡いが、己の気配には疎いな」
「そんなこと、言われても」
軽く笑われて、陽子は口を尖らせた。尚隆は声を落として続ける。
「少し、気をつけろ。普通の者には分からんだろうが、目端の利く者が見たら、すぐに正体を見破るぞ」
どきりとする一言。このひとは、いったい何をどこまで知っているのだろう。陽子は緊張した面持ちで尚隆を見上げた。
「目端の利く者って……」
「俺は、お前を初めて見たとき、お前が景王だとすぐ分かった」
尚隆はいっそう声を低めて囁いた。このひとは、何もかもお見通しなのかもしれない。正に今日、目端の利く者に出会い、正体を見破られたばかりだ。しかも──。陽子は俯く。
「──分かった。気をつけるようにする」
「あまり景麒に心配かけるな。出してもらえなくなるぞ」
陽子は黙した。景麒のことまで持ち出すなんて。本当に、今日の尚隆はどうかしてる。足許でくすりと笑う声がした。班渠だ。いったい何が可笑しいのだろう。自王の窮地が楽しいのだろうか。
「──班渠のほうが物分りがいいな」
そう言うと、尚隆は溜息をついた。班渠が何を分かっているというのだろう。陽子に分かるのは、班渠がたまに意地悪をするということだけだ。陽子は足許に問う。
「班渠、驃騎は?」
「王宮に戻りました」
明快な答え。ということは、景麒はもう知っているはず。
「じゃあ、班渠、冗祐、ちょっとだけ、離れたところにいてくれないか」
陽子は小さな声で言った。頬に染まっていくのが分かった。班渠が意地悪を言う前に。──いや、それは、単なる言い訳に過ぎない。使令は咎めるような声を上げる。
「──主上」
「景麒は、私が……延王と一緒にいると、知っているんだろう──?」
もっと小さな声で囁いた。こんなことを口に出す自分が、少し恥ずかしい。陽子は俯いた。
陽子一人ならば、景麒は使令なしで出歩くことを許したりしない。それは充分に分かっている。陽子は、慶の国主景王。命を落とすことが許されない存在なのだから。
しかし、今日は。剣豪で名高い延王と一緒なのだ、大目に見てほしい。久しぶりに会う伴侶と、二人きりで過ごしたい。それは、そんなにも許されない我儘だろうか──。
「──陽子の頼みを聞いてやってはくれぬか。今日は俺が責任を取ることになっているのだしな」
尚隆が微笑してそう言った。使令は同意した。
「──延王がそう仰るのならば」
陽子は、はにかんだ笑みを見せた。
「班渠、冗祐、ありがとう」
そして、陽子の気持ちを察してくれた尚隆にも、心の中でそっと感謝した。
* * * * * *
使令の気配が消える。本当に、初めての二人きり。蓬莱にいたときは、彼氏とデートなんて、したことがない。そういったことに憧れることはあったが、厳しい親に、女子高通い。日々、いい子でいることばかり考えていた。人を好きになったことなど、一度もなかった。
こちらに来てからも、激動の毎日で、心の休まる日がなかった。いつも、王として在ることを望まれた。ただ、このひとといるときだけ、陽子は陽子でいられた。
その大きな手に、そっと手を伸ばす。幾度も口づけを交わし、身体を重ねてきた相手なのに、手をつないで歩いたことは、一度もない。景麒しか知らない、密かな恋だから。どうか、子供っぽいとは言わないでほしい。上目遣いに見つめると、尚隆は陽子を見下ろし、くすりと笑ってその手を引いた。
それから二人で堯天の街をそぞろ歩いた。肩を寄せ、手をつなぎ、他愛のない話をして笑いあった。まるで、普通の恋人同士のように。この時間がいつまでも続けばいいのに。そう願わずにはいられなかった。
互いに一国の王。頻繁に会えるわけではない。しかも、王が王を伴侶に選ぶなど前例がない、と景麒に諌言された。しかし、景麒は陽子の僕。結局は主に従う。それに、景王陽子は延王の助力を受けて登極したのだから、景麒も黙認せざるを得ない。
延麒六太は理解してくれたのに。そして陽子はくすりと笑う。景麒と延麒は神獣麒麟、そして使令たちは妖魔。秘めた恋を知るものは、みな人ではない。
腹が減った、と尚隆が言った。陽子は食事を済ませていたが、尚隆につきあって飯堂に入った。王のくせに放浪を繰り返すこのひとは、慶の食べ物も陽子より詳しい。たまにお酒を強要されて困惑したが、楽しい食事のひと時だった。そして、尚隆は舎館を取った。手をつないで階段を上がりながら、陽子は少し緊張していた。
* * * * * *
房室に入った途端、尚隆は陽子を後ろから抱きすくめ、首筋に口づけた。陽子は小さく声を上げた。
「ちょ、ちょっと待って……」
「──俺は充分待たされたと思うぞ、陽子」
溜息混じりの声が耳許で囁く。それだけのことに身体が敏感に反応してしまうのは、久しぶりの逢瀬だからだろうか、それとも──。
尚隆は慣れた手つきで陽子の服の中に手を入れ、肌を愛撫する。……いつもより、強引。その手の感触に重なるものを感じ、陽子はきつく目を閉じた。今は、決して思い出しては、いけない。
「私も、ずっと待ってたよ──」
陽子は身を捩って前を向き、尚隆の首に腕を絡めた。目に涙が滲む。尚隆の微笑がぼやけて見えた。強引な愛撫が止んだ。ふわりと抱きしめられ、優しい口づけを受けた。
「今日は、ずいぶん可愛いな」
そう囁いて、尚隆は目を細めた。いつもと違う、穏やかな抱擁──もしかして、いつも否応なく抱きすくめられてしまうのは、己のせいなのだろうか。愛しむような眼差しに見とれながら思った。この瞳を見つめたい、といつも願っていた。このひとの、この眼差しに焦がれていた。目が、離れない。離せない。
さっき、そう言われ、瞳を覗きこまれた。当惑した。が、今、分かった。目を離すと、消えてしまいそうな、そんな気がした。思わず首に回した腕に力が籠もった。
尚隆が苦笑したような気がした。長い口づけを交わす。涙が零れた。なんの涙か、よく分からなかった。その涙を、尚隆が慣れた仕草で拭う。そう、いつも、その唇で──。そうしてほしいからなのだろうか、このひとの前で、いつも涙が溢れるのは。
濡れた瞳でじっと見つめた。誘惑、と言われた瞳で。覗きこむ尚隆の目は、深い色を湛え、微かに頷く。きつく抱きしめられた。わななきが止まらなかった。腕の力が緩む。
「──怖いか?」
優しい声で訊いてくる。激しく首を振る。違う、そうじゃない。なのに、声が出ない。涙が止まらない。
「陽子? どうした?」
困ったような、呆れたような声。陽子はもう一度、濡れた瞳で尚隆を見上げ、その背にわななく腕を回した。
お願い、もう訊かないで、止めないで──。
言葉にならない想いが、涙となって零れていた。
尚隆は微笑した。そして、陽子の涙を唇で拭い、強く抱きしめた。陽子は震える腕で尚隆に縋りついた。
この腕に、この胸に焦がれていた。ずっとずっと。他の誰でもない、このひとに抱かれたい。この渇きは、他の誰にも癒せない。ただひとりのひとを選んでしまった孤独に、気づいてしまった。
何もかも知っていたとしても、このひとを選んでいただろう。会えない日々に心を痛めても、前例がない、と人に謗られても。誰にも話すことができなくても。そして、この重みを、このひとは最初から知っていた。王が王を伴侶に選ぶ重さに、独りで耐えていた。──そう、気づいてしまった。
彼に奪われ、教えられた。こんなつもりじゃなかったんだけど、という彼の躊躇いは、偽りではなかった。陽子が何者か、彼は気づいていた。女王に触れる怖さを、彼もまた知っていた。だからだろうか、彼を拒み切れなかったのは。共犯者の笑みを浮かべた彼は、決して秘密を漏らしたりしないだろう。
莫迦な女。何も知らなかった。彼に抱かれるまで、分からなかった。いつまでも愚かな自分──また涙が溢れる。
残照──このひとは気づくだろうか。
甘く苦い涙に苛まれる。けれど、懺悔はしないと決めた。あれは、僥倖。彼と出会ったのは、必然。だから、後悔はしない。口に出してはいけない秘密を、一生背負い続ける。
そんな陽子を選んでくれた、このひと。このひとの手は、最初から揺るぎなかった。俺の運命、と呼び、優しく、強く、躊躇いなく陽子を抱きしめた。
このひとに相応しい伴侶になりたい。いつか、きっと。それまでは、口に出すまい。
愛してる、とは。
「陽子」
優しく呼ばう声。甘い言葉よりも耳に心地よい。潤んだ瞳で見つめ返す。彼とは違う熱を帯びた瞳を。それは奪う情熱ではなく、求める情熱。
受け入れよう、求められる限り。抱きしめよう、力の限り。
このひとの孤独を癒したい。その心に潜む昏い深淵に、小さな灯りを点そう。
「尚隆──」
愛しい伴侶の名を呼ぶ。陽子だけに許された、このひとの真の名を。
唇を重ね、身体を重ね、そして心を重ねよう。恋しいこのひとに。ありったけの情熱で。
2005.06.24
「僥倖」の続きを、陽子サイドから書いてみました。
ひじょ〜に恥ずかしい仕上がりとなりました。赤面……。
実は、最初にこのお話を考えたときには、冒頭のデートシーンは、ありませんでした。
尚隆の「独白」を書いてみて、加筆してみました。
陽子って女子高生だったんだよね。
陽子の罪悪感のなさを謗られるかもしれませんが……思いは刻一刻と変わり、
決して永遠ではないのでは。
そして、揺らぎ、離れ、また還ってゆく……。
人生が長くなればなるほど、そんな誘惑=変化を求める──
なんて、またそんな勝手な妄想を膨らませてます。
このお話を書いたときは「月影」も「黎明」も仕上がってませんでした。
なんだか、感慨深いです……。
2006.06.14. 速世未生 記